近代芸術とは何か
2008.01.29
近代芸術を語る上でまず欠かせないのは、その出発点たる、17世紀の新旧論争である。
古代人の優越性に対して反駁を加えるペローに、古典主義者ボアローが対抗する形で始まったこの論争は、
まだ確固たる芸術の判断基準を持たぬ時代でもあり、不毛な議論の末結局のところ痛み分けに等しい形でひとまずの終焉を迎えるわけであるが、
全くもって無意味な事件であったというわけでは決してない。
つまりは、古代に対する近代という自覚が、この論争において初めて芽生えたのである。
近代の特性、古代に対して近代が明白に優越している点として近代主義者らが自覚したのは、科学、すなわち「進歩」の概念であった。
こうして「進歩」という側面を備えた芸術、つまり近代芸術が誕生し、以後発展を見せるわけである。
そして19世紀半ば、近代芸術に多大なる影響を与える宣言がなされた。
ヘーゲルによる芸術終焉論である。
つまり、物質に加え、人間の精神をも啓示するという役割を担ってきた芸術であるが、
その物質と精神の調和はギリシャ彫刻に表わされる古典美を頂点として、
次第に、進化論的に、精神の方がより多くを占めるようになり、
そして今や芸術という範疇に精神は納まり切らなくなったのだと、彼は宣言したのである。
これを芸術の終焉と呼ぶわけであるが、無論芸術が消えて無くなったわけではない。
あくまで精神の啓示手段としての芸術の終焉であって、芸術では担い切れなくなったその高度な精神は、以後宗教・哲学によって引き継がれるわけである。
そして、精神の啓示という、いわば軛から解放された芸術は、以後自由に、内容に捕らわれぬ美しい「形式」としてのみ存在し始める。
このパラダイムシフトは、芸術家に高い自立性を生じ、近代芸術の「進歩」に拍車をかけ、ひいては抽象芸術へとつながってゆく。
芸術終焉の宣言以後、その理念に即して、近代芸術は純粋なる美の追求を開始する。
初期段階として為されたのは、芸術からの文学性の排除である。
それまでの、神話・聖書・史実といったようなものに依存する芸術から脱却し、純粋に構成・色彩等によってのみ感動を引き起こすような芸術へとシフトしたわけである。
クールベによる『オルナンの埋葬』はその一つの際立った例である。
それが「進歩」の概念によって更に推し進められ、研ぎ澄まされた結果として現れるのが、カンディンスキーに始まる抽象絵画である。
抽象絵画は、純粋なる美的形式追求の為に、不要物がことごとく削ぎ落とされたものであり、内容を完全に失ってはいるが、ただ美しいことは確かである。
しかし、抽象絵画は更に近代芸術としての「進歩」を推し進め、ついには芸術家の主観が過剰に膨張した、至極難解な、ミニマルなものへと行き着く。
純粋なる美の追求、「進歩」は、ここに極点に達し、近代芸術はヘーゲル以来、二度目の終焉を迎えることになるのである。
行き過ぎた抽象芸術、近代芸術への反動として現れたのが、1960年代に始まるポスト・モダンである。
ドイツ表現主義に対する新即物主義、アメリカ抽象表現主義に対するアメリカ・ポップアート等が、その表出としてまず挙げることができるであろう。
いわば、極端な抽象主義に対する反動的リアリズムであり、より大衆志向の強いものである。
今現在もその流れの延長線上にあるとは考えられるのであるが、問題は、現在が真に近代芸術から切断されたもの、
つまりは厳密な意味でのポスト・モダン(後近代)であるのかどうかということである。
レイト・モダン(後期近代)、即ち現在があくまで近代芸術から連続しているもの、
その「進歩」の過程の一段階に過ぎないという可能性も、大いに考慮されて然るべきなのである。