"The Wives of The Dead" -姉妹の夢と現実-
2008.06.13




私はホーソーンの短編"The Wives of The Dead"を、キリスト教社会における一つの教訓的な物語として読んだ。
いかなる教訓かと言えば、「不信心は報いを受ける」というものである。
この小説を私自身の解釈に則って簡潔に定義付けるならば、「不信心の罪を犯したMargaretが相応の罰を受ける物語」である。

まずMargaretの罪についてであるが、これは小説前半部分における彼女の言動による。
即ち
 "She now shrunk from Mary's words, like a wounded sufferer from a hand that revives the throb."(193)

 "'There is no blessing left for me, neither will I ask it,'"(193)
といったような、"rebellious expressions"(193)である。
この部分における彼女の不信心さは、直前におけるMaryの
 "…began to recollect the precepts of resignation and endurance, which piety had taught her, when she did not think to need them."(193)
という描写と対比され、より際立っている。
この一時の不信心により、Margaretは小説の結末において罰を受けることになるのである。

Margaretが受ける罰、それについて述べる前に、まずMargaretとMaryそれぞれが体験した、真夜中の来訪者との問答について考察する必要がある。
根拠は後述するが、結論から言えば、Margaretの体験は夢、Maryの体験は現実であるというのが私の解釈である。
この解釈に則るならば、小説の結末における"…and she suddenly awoke."(199)は、Margaretが「夫の生存を知って歓喜している夢」から突如覚醒したことを意味する。
そこでMargaretはまず急激な幻滅を味わい、加えて、全く逆に、他ならぬMaryの夫の生存の事実を、羨望と悲嘆をもって聞かされることになるわけである。
この急激な幻滅、そして何よりMaryとの相互的な関係(未亡人同士という)が消滅することによる、悲しみの負担の増大こそが、私の考えるMargaretへの罰である。

この小説に対する私の解釈の上で最も重要なのは、Margaretの体験が夢、Maryの体験が現実であるということの裏付けである。
以下に2点を挙げる。

1点目は、Margaret、Maryそれぞれの、来訪者との問答の場面の描かれ方の差異である。
Margaretの問答の場面における描写には、
 "…and melting its light in the neighboring puddles, while a deluge of darkness overwhelmed every other object."(195)
 "indistinct shapes of things"(196)
 "order glimmering through chaos"(196)
 "memory roaming over the past"(196)
などが見られる。
これらの描写から受ける印象は、流動性、抽象性、不明瞭性などである。

一方Maryの問答の場面における描写には、
 "The storm was over, and the moon was up"(197)
 "…as he alternately entered the shade of the houses, or emerged into the broad streaks of moonlight."(198)
などがある。
これらmoonやthe shade of the houses、broad streaks of moonlightといったものは、
嵐の止んだ中、比較的輪郭のはっきりとした、線的なイメージを想起せしめ、明瞭性や固体性を印象付ける効果を生じている。

このような描かれ方の差異は、Margaret、Maryそれぞれの、真夜中の体験の性質の差異につながるものである。

また、Maryに関しては、真夜中の来訪者との問答の前後にも注目すべきである。
即ち、
 "A vivid dream had latterly involved her in its unreal life"(196-197)
 "the pall of sleep was thrown back from the face of grief"(197)
 "a doubt of waking reality"(198)
といった箇所である。
MaryにはMargaretと異なり、
ことさらに夢から覚めた覚醒状態にあること、あるいは自身が覚醒状態にあるかどうかを疑う理性のあることを仄めかす描写が見られる。
これらの描写も、Maryの体験が現実であり、Margaretの体験がそうでないと解釈する根拠の一つである。

2点目は、"the window that overlooked the street-door"(195)の掛け金についての記述である。
Maryが真夜中の来訪者に応対するために件の窓を開けた際の記述であるが、
 "By some accident, it had been left unhasped, and yielded easily to her hand."(197)
となっている。
仮に時間軸に沿って自然に考えたならば、この時点で掛け金が外れているのはMargaretが窓を開けたからだと思われるわけであるが、
それにしてはこの記述の仕方は些か淡白である。
ここでもし、Margaretによって掛け金が外されていたのだという示唆が明白になされていたならば、
Margaretの体験が現実のものであったという可能性が俄然強くなるのであるが、ここではただ「偶然」の一言によって片付けられている。
この点でもまた、Margaretの真夜中の体験が現実のものではなかったのではないかという思いを強くするのである。



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