"Rappaccini's Daughter" -科学の対立が招いた惨禍-
2008.07.25
Nathaniel Hawthorne(1804-1864)の"Rappaccini's
Daughter"は、科学が引き起こす災難を描いたものであるが、
特に「科学者同士の対立」に焦点が当てられているように思える。
その「科学者同士の対立」、即ちRappacciniとBaglioniの対立関係に対するBeatrice、Giovanniそれぞれの関わりから、当短編の主題について考察したい。
まず当短編における「科学者同士の対立」についてであるが、これはBaglioniがRappacciniに向けて発した言葉の端々から読み取ることができる。
例えば
"'Perchance,
most learned Rappaccini, I may foil you where you little dream of
it!'"(108)
や、
"'A vile empiric, however, in his practice, and therefore
not to be tolerated by those who respect the good old rules of the medical
profession!'"(120)
といった箇所である。
また、語り手によって
"…there was a professional
warfare of long continuance between him and Doctor Rappaccini, in which the
latter was generally thought to have gained the
advantage."(100)
というかなり具体的な記述もなされている。
これらの描写から、RappacciniとBaglioniが互いに相容れぬ方法論・信条を持つ科学者であり、またその抗争においてはBaglioniが劣勢にあったという背景が見て取れる。
以下、この「科学者同士の対立」に、Beatrice、Giovanniがそれぞれどのように関わるかということについて考察する。
まずBeatriceであるが、彼女は単に科学の犠牲者ではなく、「科学者同士の対立」の犠牲者に他ならない。
確かにRappacciniの科学は彼女を有毒にはしたが、結局のところ彼女を死に至らしめたのはBaglioniのもたらした解毒剤なのである。
一つの解釈として、ライバルとの権力抗争において劣勢に立たされていたBaglioniが、
敵の研究の集大成ともいえる有毒の娘を、その娘に心酔している青年を騙し利用して「毒殺」したのだと考えることも、あるいは可能である。
結末におけるBaglioniのRappacciniへの叫びに、勝利の響きが混じっていたということはそれを裏付け得る。
また、Beatriceと同類のものとして引き合いに出したインドの王子の刺客についてBaglioniは
"'Poison
was her element of
life.'"(117)
と語っており、効力ある解毒剤がBeatriceを救うことなく死に至らしめるであろうことを、その時点で既に予見していたようにも思えるのである。
更に想像を逞しくすれば、LisabettaをしてGiovanniにRappacciniの庭への道を伝授せしめたのも、Rappacciniではなく、
BeatriceとGiovanniを接近させようとするBaglioniであったと言えはしないか。
いずれにしろ、BeatriceはRappacciniのみの科学によって命まで落とすことはあり得なかったはずである。
Giovanniという世界で唯一の伴侶を得て、有毒な体ながらも幸福を得る可能性は皆無ではなかった。その場合彼女を犠牲者と呼ぶことは必ずしもできない。
あくまで解毒剤、即ちRappacciniのそれと対立する科学の所産によってこそ、「科学者同士の対立」によってこそ、Beatriceは犠牲者となったのである。
次にGiovanniであるが、彼は単なる悲恋の青年ではなく、「科学者同士の対立」に翻弄され、人間的な葛藤や苦悩を全く蔑ろにされる人間の象徴として描かれている。
それは作品全体におけるGiovanniの内面描写の質・量の豊富さと、結末におけるGiovanniの突然の不在との対比によって暗示される。
作中においてGiovanniはことあるごとに、Beatriceに対する感情を鮮やかなまでに変化させたり、燃え上がらせたりする。
その内面描写は極めて豊かで繊細であり、小説全体の長さに比して記述量も些か過剰と思われるほどである。
そのようにこの小説の根幹を成しているGiovanniの内面描写が、クライマックスにおけるBeatriceの死に際しては全く現れない。
内面描写はおろか、台詞すらない。
Beatriceに対して作中最も激しく人間的な感情を向ける人物であり続けたGiovanniが、彼女の死に対して全く沈黙したままなのである。
そしてその沈黙の中最後に叫ばれるのは科学者Baglioniの「科学者同士の対立」における勝利の快哉である。
これは痛烈な皮肉である。
つまりこの小説は結局のところ、殺伐とした合理主義的な「科学者同士の対立」の物語であって、
その中ではGiovanniがBeatriceに関して幾度となく繰り広げてきた苦悩や葛藤などといった人間的な感情は実際は取るに足らないものであったのだと、
最後の最後におけるBeatriceの死、最も切実で深い苦悩や葛藤の表現されるべきであるところのBeatriceの死に対して、
Giovanniを拍子抜けするほどあっけなく沈黙させることで暗示しているのである。
要するにGiovanniは、「科学者同士の対立」に翻弄され、人間的な感情を全く蔑ろにされる人間の象徴である。
以上、BeatriceとGiovanniがどのようにRappacciniとBaglioniの「科学者同士の対立」に関わっているかという観点から当短編を分析してきたが、
そこから当短編の主題について考察を行うとすると、一言でいうなれば「科学と科学の競争がもたらす惨禍」であろう。
科学は、他の思惑による科学と敵対的な競争を開始した時に、より大きな惨禍、人権侵害を引き起こす可能性があるという教訓である。
その歴史上の実例は、枚挙に暇がないのではなかろうか。