Mary -Ganinの心変わりの正体-
2008.07.29




Vladimir Nabokov(1899-1977)のMary(1970)に登場する主人公Ganinは、
自身の初恋の女性であるMaryとの再会を熱望し、かつその夫から彼女を略奪し、逃避行しようとする意思を作中抱き続けるにも拘わらず、
結末においては、Maryと一切会うことなく南行きの列車に乗り一人旅立つのである。
この小説終盤におけるGaninの心変わりに関しては間接的な描写が多く、些か不明瞭な部分があるように思える。
そこで本論においては、彼の心変わりの進行過程に対する詳細な分析を行い、
厳密には一体テクストのどの箇所において「Maryに会わない」という意思が固まったのかということを特定してみたい。
さらには、何故GaninはMaryに会わなかったのか、ということについても考察する。

まず、Ganinの「Maryに会う」という意思が、小説終盤において明確に表れているのはどこまでかということの考察である。
13章から見てゆくと、13章では
 "'And tomorrow I'm going to take her away,'"(87)
 "He had no doubt that Mary still loved him."(93)
15章では
 "'What happiness! Tomorrow―no, it's today, it's already past midnight. Mary cannot have changed since then, her Tartar eyes still burn and smile just as they
 did.' He would take her far away, he would work tirelessly for her."(102)
 "today―he would see her again,"(102)
といった記述が見られる。
これらは全てGaninの内面における思考そのものを記述したものであり、彼の嘘偽りない意思の表れと受容して問題ないと思われる。
つまり15章の時点までは少なくとも「Maryに会う」意思をGaninが持っていたということが、まず言えるであろう。

では16章ではどうだろうか。
 "He set it for ten o'clock, then changed his mind and set it for eleven."(108)
という箇所は、直接的な意思の描写ではないものの、Maryを連れ去る計画をより確実に遂行しようとするGaninの意思がその行動から読み取れるため、
少なくともこの時点までは「Maryに会う」つもりがあったと考えてよいだろう。
しかしこの記述の直後の2パラグラフは検討を要する。
それは
 "When he looked Alfyorov again…through the dappled shadows of the lime trees in bloom."(108)
という箇所である。この箇所は、Alfyorovが酔い潰れて眠る姿を見たGaninが、それをきっかけとしてロシアの村におけるルンペンや村の風景を回想する場面である。
作中繰り返し出てくるロシアの回想シーンの一つであるが、ここではある特異性を有している。即ちMaryの不在である。
 "Tomorrow all his youth, his Russia, was coming back to him again."(102)
という言葉が象徴するように、この小説において、Ganinの内部には明らかにMaryイコールRussiaという構図が形成されている。
彼は作中幾度となく、Maryを通して「MaryのいるRussia」を回想するという行為を行ってきたわけである。
ところが問題の2パラグラフにおけるロシアの回想風景の中には、Maryの存在が極めて希薄である。
つまりGaninはここで、「MaryのいないRussia」を、しかも恋敵として憎むべきロシア人であるはずのAlfyorovを通して回想しているのである。
即ちこの箇所は、GaninのMaryからの脱却、心変わりの始まりの暗示としての解釈が可能である。
しかしあくまで暗示的な箇所であり、「Maryに会わない」という決意はこの時点ではまだ固まっていないように思える。

続いて16章に描かれるのは、Podtyaginの部屋での場面である。
先に言ってしまえば、私はこの箇所でこそ、Ganinの「Maryに会わない」という意思が固まったと考える。
具体的には、
 "For a moment he saw life in all the thrilling beauty of its despair and happiness, and everything became exalted and deeply mysterious…"(110)
というこの瞬間である。この"thrilling beauty"がGaninの心変わりの引き金となったのである。
Ganinの心変わりの瞬間について具体的な説明を施すには、8章のラストシーンについて言及する必要がある。
8章のラストシーンと16章のPodtyaginの部屋の場面は酷似している。
共にPodtyaginが発作を起こしていて、絶望的な空気が漂う場面であるし、
Ganinがその中で幸福な過去を回想していると、暗い部屋の中の人や物が"mysterious"に見えるという点も同じである。
以下詳細に見てゆく。

初めに8章のラストシーンを詳細に見てみる。
まずPodtyaginは心臓発作を起こしている。Ganinは窓枠に座り、その時回想が始まる。
 "in a flash he wondered where it was that he had sat like this not long ago―and in a flash he remembered: the stained-glass interior of the pavilion, the white
 folding table, the hole in his sock"(62)
という箇所である。
そして
 "Everything seemed strange in the semidarkness: the noise of the first trains, the large, gray ghost in the armchair, the gleam of water spilled on the floor. And it
 was all much more mysterious and vague than the deathless reality in which Ganin was living."(62,下線は引用者)
という体験をGaninはすることになる。

次に16章のPodtyaginの部屋の場面について詳細に見てみる。
ここでもまずPodtyaginは心臓発作を起こしている。
Ganinは、自身の中で"undying life"(110)となったところの、Podtyaginの"two pallid verses"(110)のことを思い、ここで回想らしき行為をしている。
するとその瞬間
 "For a moment he saw life in all the thrilling beauty of its despair and happiness, and everything became exalted and deeply mysterioushis own past,
 Podtyagin's face bathed in pale light, the blurred reflection of the window frame on the blue wall and the two women in dark dresses standing motionless beside
 him."(110,下線は引用者)
という体験がGaninに訪れる。

以上のように、両者の間には高い類似性が認められる。
しかし注目すべき差異がいくつか存在する。
最大の注意を向けるべきは、16章においてのみ、"mysterious"に見える"everything"の中に"his own past"が含まれている点である。
これは即ち、
8章においては"his own past"の内部にいたGaninが、
16章においてはその内部から外へ抜け出し、"his own past"を客体として見ることができるようになったということを示している。
16章のこの時点までは、8章冒頭に示された
 "His shadow lodged in Frau Dorn's pension, while he himself was in Russia, reliving his memories as though they were reality."(55)
 "It was not simply reminiscence but a life that was much more real, much more intense than the life lived by his shadow in Berlin."(55-56)
といったような状態、つまり"his own past"の内部にGaninが存在し、それを追体験している状態が続いていたものと思われる。
8章ラストシーンのGaninの回想においても、"not long ago"(62)という言葉が示すように、
Ganinが"his own past"を現在のものとして知覚するほどにその内部に入り込み、生活しているということが窺える。
この時点では、"his own past"を客体として見ることはGaninには不可能だったのである。

では16章においてGaninが"his own past"を客体として見られるようになったことの意義は何であろうか。
それは"thrilling beauty"の体験を可能にしたことである。
8章では現れなかった"thrilling beauty"が、16章ではGaninに降りてくるのである。
Ganinにおいては、"thrilling beauty"を成すのは人生の
 "despair and happiness"(110)
である。
つまりこの16章において、
"despair"がPodtyaginによって生成され、
同時に"happiness"がGaninの"undying life"たる"two pallid verses"の回想によってもたらされた瞬間、
Ganinは"thrilling beauty"を体験するに至ったのである。
8章との違いは、Ganinが"happiness"(= 回想、his own past)を客体として、つまり"despair"と同次元のものとして見ることができたということである。
その2つの要素の均衡こそが"thrilling beauty"を生み出したのである。
つまり"happiness"、回想世界の中から抜け出し、その"happiness"と"despair"とを客観的に、同列的に見ることができたときに、
"thrilling beauty"をGaninは初めて体験し得たのである。
そしてその瞬間"his own past"を含む全てのものが、高尚で非常に神秘的なものにGaninには捉えられた。
それは恍惚の時であったろう。それゆえの"Ganin was smiling"(110)である。
考えてみると、Ganinは8章においても不完全ながら"thrilling beauty"の恍惚を得ていたと解釈することも可能である。
正当な形式ではないにせよ"happiness"と"despair"が接触を果たしたことにより、"vague"(62)ながらも全てのものがGaninにとって奇妙で、神秘的なものになってはいる。

では、16章において完全な"thrilling beauty"の恍惚を体験したことは、Ganinにとってどんな意義を持つのか。
それは、Ganinに「"despair"のある現実世界で生きてこそ、真に美しいものが得られる」ことを悟らせたことにあるであろう。
この瞬間に至るまで彼が生きてきた回想世界は、"undying life"(110)であり、"deathless reality"(62)であって、
その内部は"happiness"には満ち満ちているものの、死、即ち最上の"despair"を調達し得ないのである。
つまり回想世界の内部で生き続けている限りは、永久に、完全な"thrilling beauty"の恍惚を得ることはできないのである。
そのことを悟ったGaninはこの瞬間から回想世界に生きることを止め、現実世界へと完全に復帰したのである。
"Ganin was smiling"(110)は悟りの笑みでもあり、愚かしき過去の自分への嘲笑でもあったかもしれない。
いずれにせよ、この瞬間における回想世界との完全なる分離が、GaninのMaryに対する疑似恋愛を一息に冷ましたのである。
回想世界内部においてはGaninはそれを現在のものとして知覚し、ゆえにMaryへの愛情も当時のもののように燃え上がっていたところが、
回想世界から現実世界へと帰着した途端に、あれはあくまで過去のこと、済んだことなのだと、回想に対する時間感覚と冷静さを取り戻したのである。
つまり「Maryに会わない」意思を固めたのは、「会ってはいけない」とか「会わない方がいい」といった理由からではなく、
単純に「人妻であるし、会うほどのことでもない」とGaninが自然に考えたからであろう。ごく常識的な思考である。

以上のように、16章における完全な"thrilling beauty"の恍惚の瞬間こそが、Ganinが「Maryに会わない」決意をした時点、心変わりが完了した時点であると私は考える。
17章においても心変わりを示す箇所はいくらかあるが、私の考えではそれらはGaninの確認行為である。
それらの中には、本論におけるGaninの心変わりの考察を裏付けるものがいくつかある。
例えば
 "There was something beautifully mysterious about the departure from his life of a whole house."(113,下線は引用者)
という箇所である。
"despair"の存在する現実世界に立って、"happiness"たる回想世界(his life of a whole house)を見ているこの瞬間、
回想世界からの分離(departure)そのものに、何か美しく神秘的なもの、恐らくは"thrilling beauty"の恍惚をGaninは見出したのである。
最も象徴的なのは、17章のラスト、建築中の家の屋根で働く職人たちの描写である。
"They lay on their backs"(114)というように、むき出しの屋根の骨組みの上で仰向けになって働く彼らは、
地上への落下の可能性即ち"despair"を背に、"the ethereal sky"(114)即ち"happiness"を見上げているのである。
まさしくGaninにとっての"thrilling beauty"を体現するものである。
彼らの"This lazy, regular process"(114)は"a curiously calming effect"(114)をGaninにもたらし、
直後彼はMaryとの情事は永久に終わったのだと"merciless clarity"(114)をもって悟るのである。
これは即ちGaninが、建築職人たちの姿によって"thrilling beauty"の真髄を改めて認識し、
回想世界との決別の意志を一層強固にした結果としての、疑似恋愛の完全なる終焉、"merciless clarity"(114)であると言えるであろう。







使用テクスト
Nabokov, Vladimir. Mary. New York: Vintage International, 1989.



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