ハイアートと大衆芸術の臨界
2009.01.25




芸術とは、「一般に美的価値をもった客観的対象を創作する人間の活動およびその所産」であると、『新潮世界美術辞典』には書いてある。
『広辞苑』や、『ブリタニカ国際大百科事典』をめくってみても、芸術の項に書かれているのはよく似た内容のことである。
少なくともこの定義に当てはめて考える限りにおいては、
ドーミエやシュピッツヴェーク、竹久夢二や中原淳一は、誰憚ることなく「芸術家」である。
にも拘らず彼らの作品は、例えば、ドラクロアやターナー、黒田清輝や藤島武二といった「芸術家」らの作品と同価のものとして審美されるものではないという、
風潮というか、暗黙の了解というか、そういったものがあるのは事実であろう。
語弊を恐れず、至極平たく言えば、「ハイアート」の肯定、「大衆芸術」の否定である。
「芸術」と「非芸術」の分類と言い換えてもよい。

その漠然とした差別観念が一般に広く浸透していることを示す好例を、私は実体験として持っている。
一昨年立命館大学において開講された故・筑紫哲也氏の講義において、
一人の女学生が、
「自分は三国時代に極めて造詣が深いが、その知識は全てマンガから得たものである。それは恥じ入るべきことなのか」
という質問を、筑紫氏に投げかけたことがあった。
本稿の枠組みに当てはめるならば、この学生はつまり、自分の知識がマンガという「大衆芸術」から仕入れられたものであることにコンプレックスを持っていたのである。
それは「大衆芸術」の地位が低いものであると、彼女が認識していたからに他ならない。
少なくとも彼女の質問が、その場において奇異の目で見られるということは全くなかったし、私も、彼女の悩みはさしたる抵抗もなく理解できた。
何より、筑紫氏は敢えてこの質問を取り上げたのである。
「ハイアート」の肯定、「大衆芸術」の否定という風潮のようなものは、確かに浸透しているのである。

この問いかけに対する筑紫氏の答えは、「例えば、手塚治虫に及ばない作家などいくらでもいる」というものであった。
氏が言わんとしたのは、「表現媒体で優劣をつけることの無意味さ」である。
つまり、マンガであろうと、純文学であろうと、雑誌の挿絵であろうと、額縁に入れて飾られるものであろうと、重要なのはその中身だということである。
それが視覚芸術であるならば、色彩と構図、表現意図と技巧の合致などといった要素のみから、本来は評価されるべきはずなのである。
そういった観点から見た時には、
ドラクロアや黒田清輝といった額縁付きの所謂「ハイアート」の芸術家、
とりわけローランサンや東郷青児といった「大衆芸術」寄りの「ハイアート」の担い手と、
ドーミエや中原淳一ら所謂「大衆芸術」家との間に存在するように感じられている境界線など、ないに等しいと言えはしないか。

筑紫氏の言葉を言い換えるならば、「ドーミエに及ばないハイアートの芸術家などいくらでもいる」ということになる。
しかしもちろん、「ドラクロアに及ばない大衆芸術家などそれこそいくらでもいる」ということでもある。
問題は、及ぶ及ばないという相対的評価の中に、「ハイアート」「大衆芸術」という分類の概念が入ってきていることである。
純粋に「美」を愉しむ上で、そんなものは必要であろうか。
極端な話をすれば、幼稚園児が戯れに描いた落書きも、それが「美」を内包していると感じれば評価をし、
巨匠の描いた大作であっても、そこに「美」を見い出せなければ価値を置かない、
そういった作品至上主義的な審美の姿勢こそに、私は憧れる。
「ハイアート」と「大衆芸術」などという枠組みとは一切無関係に、
「ドーミエはドラクロアに及ばない」はたまた「ドラクロアはドーミエに及ばない」などと、個人個人が各々作品のみを審美し、評価をすれば良いと、私は思うのである。
その理想を阻む「芸術」と「非芸術」の観念、「ハイアート」の肯定、「大衆芸術」の否定という風潮のようなものを生み出している原因の一つが、
畢竟筑紫氏の言う「表現媒体」の差異なのであろう。

しかし近年では、一部の芸術分野においてではあるものの、「ハイアート」的なものと「大衆芸術」的なものとの境界線はかなり薄れてきているように思われる。
日本においては、例えば、芥川賞と直木賞、即ち純文学と大衆文学の定義のあやふやさを指摘する世間の声は聞かれるようになって久しいし、
さらに広く捉えれば、カメラ付き携帯電話等の普及によって「一億総写真家時代」とも言われる現代において(写真を狭義での芸術に含めるかどうかはさておき)、
「ハイアート」的位置にあるべきプロ写真家の撮る写真と、「大衆芸術」的位置にあるはずのアマチュア写真家の撮る写真との境界線など、ほとんどないに等しくなってきている。
特に後者においては、プロアマ共に、作品の発表の場としてインターネットを利用する傾向が強くなってきていることが大きく影響しているように思える。
つまり、プロ写真家とアマチュア写真家の「表現媒体」が重なりつつあるのである。その為、「ハイアート」と「大衆芸術」の区別が輪をかけて曖昧になってきている。
今後更に、他の芸術分野においても、同じ動きが波及していくことであろう。



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