"Signs and Symbols" -靄の正体と必然性-
2007.07.25




ウラジミール・ナボコフ(1899-1977)の短篇"Signs and Symbols"は靄のような小説である。
その靄は終盤になって劇的に晴れ上がり始めるのであるが、結末に待ち受けるのは更に一層濃い「靄」である。
冒頭から漂わされたこの靄はそれ自身が既に、均整の取れた高度な芸術そのものであるが、
そこにプロット上の何らかの必然性を求める場合、この小説随一の醍醐味と言ってよい終盤の劇的な展開、結末の曖昧性との関わりを検証することは有意であると考える。

靄とは実に抽象的表現であるので、まずこれに解説を施したい。
この小説の冒頭から中盤(結末の解釈次第では小説全体と述べ得るが)にかけての基本プロットは、
ごく単純な二元論的に言うなれば悲劇の類である
(悲劇や悲しみという単純な単語からは、この小説の多くのものが抜け落ちているように思われるが、便宜的にそう呼ぶことにする)。
しかしそれをナボコフは、類稀なる巧みさをもって、読者には「そこはかとない悲しみ・不幸感のようなもの」程度の感覚を与えるに留めながら、
つまり掴みどころない靄のような形態で、終盤に入る直前まで物語の根底に漂わせ続けるのである。
その悲劇「めいた」プロットには露骨なところが少なく、まさしくぼんやりとしてはいるのだが、しかし悲劇たる要素、「悲劇への指向性」は失わない。
この「悲劇への指向性」とはつまり、比較的明瞭に(十分婉曲的だが)悲劇的要素が描かれた箇所のことである。
つまり極力悲劇を悲劇と気取らせない、それでいて確かにこれは悲劇であろうと読み取らせる、
そういう絶妙な均衡をもった文章の構築を、ナボコフは冒頭から中盤にかけて行っている。
「はっきりとはしないけれども、しかし何か悲しい」のである。
この不明瞭な感覚、靄を土台として、小説終盤の展開、結末は劇的なものとなる。
そこにこの靄の、プロット上の必然性がある。

未だ論が抽象的であるようなので、ここで実際の例に即して、ナボコフの巧みな靄の「散布」を考察したいと思う。
彼は靄の素材、というか本質である「そこはかとない悲しみ・不幸感のようなもの」を産み出すのに、
小説を読んでいる者の無意識下の視覚(活字を追っているのとは別の、脳内のとでも言うべき)と聴覚(これも脳内の)を積極的に利用している。
つまり意識のレベルまで上がってこない、人間の本能的感覚に密かに干渉することにより、不明瞭だがゼロではない、「何らかの感情」を喚起させ、
それをもって「そこはかとない悲しみ・不幸感のようなもの」を読者の中に生成しているのである。
ここで言う「何らかの感情」とは、単なる悲しみ・不幸感だけを指さず、多様な感情(概して負の)を含むが、それについては随時述べてゆく。
これらの実例は小説冒頭部分に著しいので、主にそこへ言及する。

まず無意識下の視覚への干渉について考察する。
例示するにふさわしいのは、"Mrs.Sol"("Signs and Symbols" 594)という人物の一瞬の登場である。
彼女はプロット上登場する必然性を持たぬ人物である。
しかし「固有の」名を持つ人物として登場した以上、読者は無意識に彼女の「顔」、「姿形」をそれぞれの想像で脳内に描くであろうと思われる。
直前の"other women of her age"("Signs and Symbols" 594)ではフォーカスの当たらなかった、
その表情という視覚的イメージを、読者にもたらしているのである。
固有名を与えることで不特定多数の雑多なものの中から一人を抜き出し、読者の無意識下の視点を定まらせた結果である。
今問題にしているのは、これがどう「そこはかとない悲しみ・不幸感のようなもの」の生成に関わるかということである。
私が思うに、この時点で無意識の内に、主人公の妻に多少なりとも感情移入しているという前提で考えた場合、
読者にとってMrs.Solの表情というのは幾分不快に映るであろう。
それは彼女が、質素な主人公の妻と同化した状態の読者からすれば、豪奢で高圧的で、忌むべき人間に見えるからである。
そしてこの無意識下の、本来不快感であるものが、
主人公の妻の地味さと、他の同年代の女性達の華やかさの対比という、
この部分に描かれた婉曲的な悲劇的場面(この要素が前述の「悲劇への指向性」である)の文脈に置かれた時、
「そこはかとない悲しみ・不幸感のようなもの」として「錯覚」されるのである。
それは不快感と悲しみ・不幸感というものが、負の感情であるという点で類似していること、
そして無意識下ではその類似性が更に増すであろうことに原因がある。
そもそも我々が日常しばしば知覚する「そこはかとない何か」とは、その「何か」そのものではないのである。
その「何か」を類推させるような、似てはいるが異質なものを感じ取っているのであろうと思われる。
つまり「そこはかとない悲しみ・不幸感のようなもの」をより巧みに表現する為に、
悲しみ・不幸感そのものではなく、似て非なる別の負の感情、ここでは不快感を、
ナボコフは読者にうっすらと知覚させているのである。
少し述べたが、ここで言う不快感が、他でもない悲しみ・不幸感に「錯覚」されるのは、もちろんその不快感の周囲に悲劇的要素が存在しているからである。
つまり、「そこはかとない悲しみ・不幸感のようなもの」の生成には、「悲劇への指向性」、
即ちある程度明瞭な悲劇的描写(無意識ではなく理性に訴える)が不可欠である。
しかしそれは、まだ読者にとってこの物語の悲劇的性質があまり定まっていない、小説冒頭部分において特に必須であるものと言えるであろう。
ともかくその「そこはかとない悲しみ・不幸感のようなもの」と「悲劇への指向性」の均衡が、絶妙である。

他の、無意識下の視覚への干渉についても、私が主張することは同じ類のものである。
例を挙げてゆけば、
 "The underground train"("Signs and Symbols" 594)
 "grubby red toenails"("Signs and Symbols" 595)
 "the long tusks of saliva"("Signs and Symbols" 596)
等である。
これらが先程のMrs.Solの例と異なる点は、文脈に直接的に絡まない点である。
これらは読者に読まれた瞬間、その脳裡に無意識の内に視覚的イメージとして想起され、
小説とは独立して何がしかの「生理的な」負の感情を密かに産出するものである(個人差はあると思われるが)。
しかしその機能は同質のものであり、「錯覚」のプロセスを経て「そこはかとない悲しみ・不幸感のようなもの」となる。
こういった箇所が、私の意識に掛らなかった可能性のあるものも含め、無数に配置されていると思われる。

これまで述べてきた無意識下の視覚への干渉とは性質の異なる干渉の例も存在する。
それが、
 "every time she glanced at his old hands"("Signs and Symbols" 595)
という箇所である。
ここは即ち、読み進めて来た読者が「初めて」小説内の人物の確固たる視線(これは主人公の妻の視線である)を、無意識下に獲得する場所である。
ここで仮にまた、読者の主人公の妻に対する、無意識下の感情移入が多少なりとも進行しているという前提で考えた場合、
この一文が即座に読者の脳裡に描き出す視覚的イメージは、
「隣に座った夫の手を見ている妻」という第三者的視点の映像ではなく、
「妻自身の視点からの、隣に座る夫の大写しになった手」というイメージではなかろうか。
この、小説内人物、ひいては小説世界そのものに対する、
極めて短い時間ではあるが、急激な接近という体験(無論無意識下の話である)、それが生じた地点というのは、強い印象を読者に残すものと推測される。
問題は、その接近した地点の状況である。
この箇所は、息子が再び自殺を図ったことを聞いたサナトリウムからの帰り、雨のバスの中で夫婦は言葉を交わすこともなく、
妻は夫の年老いた手を見ているうちに涙が込み上げるのを感ずる、といったような、かなり強い「悲劇への指向性」をもった部分である。
つまりナボコフは、このような場面へ密かに(無意識の内に)、しかし強引に読者を引きずり込み、
そこにかなり明瞭に存在している悲しみ・不幸感を、瞬時に手際よく、気付かれぬよう読者の無意識下に植え付けているのである。
その過程があまりに瞬間的である為、結局のところ読者の中では「そこはかとない悲しみ・不幸感のようなもの」と知覚されるのである。

次に、無意識下の聴覚への干渉について考察する。
これは先程の、「初めて」獲得された小説内人物の視線に関する考察と同類のものである。
従って、小説内で「初めて」発せられる音といったものに言及することになる。
まず挙げるのは、
 "He kept clearing his throat"("Signs and Symbols" 595)
という箇所である。
つまりこれは、主人公が「初めて」明確に発する音である。
ここで、活字を読む行為というものについて少し考えると、この行為は即ち想像を伴うものである。
文字という記号を、個々の経験をもとに脳内で現実のイメージへと無意識に変換してゆく行為である。
しかしそれはあくまでイメージでしかなく、現実ではない。
活字から喚起されたイメージと現実との大きな相違の一つは、イメージの方は基本的に、無意識の内に無音になってしまっていることが多いということだと言えると思う。
逆に言えば、そのイメージに何らかの印象的な音が加わった途端、一気に現実感、臨場感が増すであろうということである。
つまり私の言わんとするのは、この「初めて」主人公の発する音、印象的な音が、この音の周囲に鮮やかな臨場感をもたらし、即ち読者を小説へと急激に接近させるのである。
後の論理は、先述の「初めて」獲得された小説内人物の視線に関する考察と全く同じものであるので、割愛する。
この音も同じく、かなり強い「悲劇への指向性」をもった文脈の内部に配置されているものである。

また、小説中で「初めて」明確に記述されている音は、
 "the dutiful beating of one's heart and the rustling of newspapers"("Signs and Symbols" 594)
である。
これも印象的な音として、読者を薄暗い地下鉄の車内へと急激に接近させ、ある種の不快感を与えると共に、
またそれ自身が生理的不快感をもたらす類の音である(個人差はあると思われるが)。
その意味において、こちらの音は、前述の不快感の「錯覚」という手法の音版、発展系と言えるものであると思われる。

このように見て来ると、ナボコフは即ち、
基本的に言語による理性的な論理そのものによって悲劇を描いているのではなく、
言語によって視覚的・聴覚的な像を読者に与え、その姿形から本能的な何か、悲しみ・不幸感を感じ取らせることによって、悲劇を構築しているのだと言えるかも知れない。
極端な話をすれば、"sad"が"The underground train"、"misery"が"the long tusks of saliva"なのであり、これこそが靄の正体である。
しかしその変換に欠かせないのが、前述したように絶妙に配置された「悲劇への指向性」である。
これなくして"The underground train"は"sad"に、"the long tusks of saliva"は"misery"にはなり得ない。
言うなれば、一見無秩序に散りばめられた「点」の群れに、薄い「線」でほのかな輪郭と秩序をもたらし、絵画を完成させるようなものである。
この「悲劇への指向性」は必要最低限のものであり、決して靄を乱すものではない。
その霊妙なる均衡感覚が、ナボコフの非凡さであり、この靄のような文章を私が一つの芸術と呼ぶ所以である。
この靄、芸術的な文章をもって、本来文芸というものが為すべき義務をこの小説は十分過ぎるほどに果たしていると私は考えるが、
更にもう一歩進めて、初めに述べたように、この小説の冒頭から中盤にかけて漂うこの靄の、プロット上の必然性にまで論を展開しようと思う。

まずもう一度靄に関して述べておくと、つまり冒頭から中盤にかけての、読者のこの小説に対するぼんやりとした悲劇の認識、
「はっきりとはしないけれども、しかし何か悲しい」とでも形容すべき感情のことである。
読者はこれを携えて、小説の終盤へと差し掛かることになる。

この終盤の入り口のあたりで、大きな転換が訪れる。
それは、登場人物の現実世界での発話が初めて行われるということである。
そしてその第一声が、
 "I can't sleep,"("Signs and Symbols" 597)
という主人公の叫びなのである。
これを受けた読者は、靄が急激に晴れ上がり始めるのを感じることであろう。
つまり、物語の舞台が、ぼんやりとしてどこか現実味のなかった悲劇から、確固たる現実世界(小説内の)でのドラマにシフトしたことを認識し、
そしてその不吉な叫び声から直感的に、どうやらそのドラマの結末は真に悲劇であるようだ、と予期し始めさえするのである。
即ち靄は晴れ上がり、その先にある結末までちらちらと垣間見えるようになる。
「とうとう来たか」という、この晴れ上がりは、ただそれだけで読者に一種のカタルシスをもたらすものであろう。
仮にここまでの文章が靄のようでなかったなら、つまりもっと直接的に悲劇が語られて来ていたならば、
晴れ上がるべきものがそもそもなく、このカタルシスは激減する。
読者としては「やはり来たか」というような、それまでとさして変わらぬ自然な流れとして終盤を迎えるであろう。
つまり転換点とすら認識されない可能性さえあるのである。 

ところがもう少し読み進めると、事態は変化の様相を呈する。
夫婦が息子を家に連れ帰ることを決め、何か希望のようなものが滲み始めるのである。
だがそこに二度、普段では考えられぬ時間にも拘らず電話が鳴る。
この希望と絶望の交錯は、言うまでもなく結末への伏線である。
この小説の幕切れは、「靄」そのものである。
ナボコフがこの短い小説において実験しようとしたものが、この結末の曖昧性にこそあるとするならば、
そしてその曖昧性をより高度な、普遍的なものにしようと求めたのであるならば、
この小説の大半を占める悲劇もまた、確かに靄によってこそ描かれなければならなかったと言えるであろう。



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