"A Rose for Emily" -語り手は誰か-
2007.09.16
"A Rose for Emily"(1930)を執筆したのは、紛れもなくWilliam
Faulkner(1897-1962)である。
しかしこの物語の大部分を小説内で語っているのは、全知全能の創造主たるFaulknerではない。
彼は、自らをよく"we"と呼称する、小説内世界の人物にこの話を語らせるという手法を取っている。
その手法を、この小説において採用したことについて、作家の意図するところを多様に思案することも大変意義深いことと感ぜられるが、この文章においては言及しない。
私が今回考察したいのは些かシンプルなことで、全知全能でないこの物語の語り手は果たして小説内の誰なのかということである。
どちらかといえばこれは、作家の執筆の動機や意図といった根源的なものへの探求というよりは、
謎解き、ただ作家の創出したこの一つの小説世界、芸術作品の上で、文学の愉悦に浸らんとする類の問題提起であると考える。
しかし、語り手は誰かというこの問いかけから、この小説の深みを照らす明かりも生まれ得ると期待する。
まず、私が語り手についての大前提として置くのは、前述の通り全知全能でないということである。
これは、もちろん語り手が基本的に"we"、つまり小説内人物であることの証と言える、一人称を備えている点からも主張できるであろうし、
文中に神の視点が存在しないこと、
つまり語り手がその時点で通常知り得ない筈の事象は(作家のミスとも思われる一文を除き)一切描かれていない点からも根拠を得られるであろう。
そして、この大前提の上に立ち、通読した後に自ずと起き上がってくるのは、語り手はあるいは複数ではないかという思いである。
その明瞭としない示唆は、3章における薬局での場面から派生して読み取られる。
3章の、薬局でのEmilyの様子を知るのは、先述の大前提を念頭に置きそしてEmilyを除けば、そして薬局を一種の密室と想定するならば、
応対した薬局の人間のみである筈である。
もしここで、この小説がただ1人の人間によって語られているのだという仮定があったとすれば、語り手は即ち薬局の人間であるという説が大きな説得力を持つことになろう。
他の部分はさておき、この3章の薬局での件は、確かに彼にしか語れぬ筈だからである。
だがこれを結論とするのは、あまりに根拠が希薄で、早計である。
語り手を薬局の人間だと断言できないのは、伝聞の可能性を考えるからである。
つまり、ある1人の人間が、薬局の人間を含め町の人々の体験したこと、記憶を伝聞・収集し、それらを編み上げてこの話を語っているということである。
無論、そのある1人の人間こそ他でもない薬局の人間である、とすれば、結局語り手はただ1人、薬局の人間なのだと結論付けることも可能に思える。
しかしそうすると矛盾し始める反例が、1章に見つけられるのである。
私が今回の語りの考察において注目したのは、一つはことさら微細な情景描写、そしてもう一つは特異な主観的表現である。
その視点から拾い上げた、前述した1章における反例とは、
"a
faint dust rose sluggishly about their thighs, spinning with slow motes in the
single sunray."(288)
と、
"two small pieces of coal pressed into a lump of
dough"(288)
というような語りである。
私がこの箇所、前述の2点に焦点を当てるのは、これらが、この語り手の言うなれば現場存在証明となり得ると考えるためである。
というのは、この箇所があまりに生気を宿しており、宛も実際に現場にて刹那的に、自身の五感で受容・思考したことのようであって、
とても後から伝え聞いて記述できる類の描写とは私には思えぬからである。
問題は、この箇所はEmilyの邸宅に市議会の代表団が訪問した時の場面であり、つまり密室での出来事であって、
なおかつその密室内部に薬局の人間は居合わせなかった筈であるということである。
要するに私の言わんとするのは、
薬局の人間は1章のこの箇所をこうも生き生きと鮮やかに語ることは出来ないということであり(体験していないし、伝聞では不可能と思われるため)、
即ち全編通しての語り手が薬局の人間ただ1人だという前の仮説は棄却されるのである。
ではその仮説のただ1人の語り手というのを、当時密室内部に居た市議会の代表団の中の誰かであると想定することは可能かというと、これも引き下げざるを得ない。
それはつまり前述したように、3章での薬局の場面を語れるのは、薬局の人間だけであろうという事実があるためである。
ならば代表団の人間が、薬局での経緯を後から伝聞して語っているという可能性はないのかというと、やはり私の考えではそれはないのである。
その根拠は、前述した2点、つまり微細な情景描写、そして特異な主観的表現である。
その薬局の場面においては、
"with
cold, haughty black eyes in a face the flesh of which was strained across the
temples and about the eyesockets"(291)
"a lighthousekeeper's
face"(291)
"a strained
flag"(291)
などが挙げられよう。
これらが現場存在証明となり、つまりはこの箇所の語り手はやはり薬局の人間以外にないというのが私の考えるところである。
こうして考察してくると、1章のある部分は代表団の人間のみ、そして3章のある部分は薬局の人間のみしか語り手たり得ないという結果に辿りつくわけである。
1章、3章の当該箇所以外の語りについてはまだはっきりとしないが、少なくとも語り手は2人以上、複数であるというのがこの時点での見解である。
別の言い方をするならば、1人の人間が実際に自分で見聞きしたことだけを語っている小説では少なくともないということである。
そこへ来て想起されるのが、この小説の他の重要な要素の一つである、曖昧模糊とした年代認識である。
ここでそれについて詳しくは言及しないが、私はその原因を、語りの多重性・複数性にこそ定めようと考えるのである。
つまり、この小説の語りは複数の町民の体験・記憶の断片を繋ぎ合わせたもので、それゆえにこそ一貫性のある年代認識が有されないのではないかということである。
この仮説は、少なくとも語り手が2人以上であるという考えから些か飛躍的に類推したに過ぎぬものである。
あいにくこの仮説を支持する論拠を、小説中に明瞭に見出すことは不可能である。
ただ、前述の1章、3章の当該箇所ほどでないにせよ、語りの中に潜む多重性・複数性を、ある種の違和感として漠然と感ずることは、この小説を読む際少なくなかった。
それだけを後ろ盾に、以後結論へと向かってみたい。
語りの多重性・複数性という風に述べたのであるが、その痕跡は前述の通り文面に全くと言って良いほど表れてはいない。
このことは、複数の町民が各々のペンと記憶とを握ってこの小説の語り手となったという図式よりも、
ある特定の人物が、彼らの話を編纂し、秩序を与えて語りを連ねているという図式の方を想定させる。
前者の図式の場合、破綻とまでは行かぬまでも、それに近い文面に成り下がるように当然思われるからである。
となると、その特定の人物とは誰であろうか。
自ずから浮かび上がるのは、例の1章の独占的記憶を持つ代表団の面々と、3章のそれを持つ薬局の人間である。このどちらかが語りを引き受けるのが、最も合理的であろう。
私の結論としては、代表団の中の1人をその役割に当てはめたい。
そのささやかな根拠は、1章において見出される。
というのは、1章のみ語り手の一人称として"they"が現れる点である。
"they"の使用は、"we"を用いている時と違い、己をそこに含めていないかのようである。
つまり1章においてだけは、語り手は一個人として客観的に事態を見ており、
この姿勢は即ち、この1章の語りが、単独の語り手の記憶のみによるものではないかと思わせるのである。
この小説の語りの大多数を占める"we"が多重性・複数性の語りの記号であるとするならば、
"they"は一重・単数の語りの記号と解釈することはできまいか。
そして、この"they"の一人称が、2章以降一切現れないというのは、単なる偶然ではあるまい。
そこには、"they"を1章において使用した人物の、小説全編にゆきわたる支配力、作為を強く感ずるのである。
即ち、"they"を用いた単独の語り手、彼こそがこの小説全体の語り手(薬局の件を除く)であろうと私は考える。
そして"they"によって語られているのはあの、Emilyの邸宅という密室内部での出来事なのである。
これらを総合して、私はこの小説のメーンの語り手、町民の記憶を連ねて多重性・複数性の語りを展開する人物を、
市議会代表団の中の一名と結論付ける所存である。
ただ、この極めて難解な小説の一側面を、的確に追究できたとは、おぼろげにしか思えないのである。