Raymond CarverとGordon Lish -作家と編集者の共生-
2009.02.13




序章


Raymond Carver(1938-1988)はアメリカの短編小説家・詩人であり、
その簡潔な文体や、物語の展開の単純さ等といった特徴から、
文学におけるミニマリズムの中心的存在として位置付けられている。
主要短編集は
Will You Please Be Quiet, Please? (1976)
What We Talk About When We Talk About Love (1981)
Cathedral (1983)
Where I'm Calling From (1988)の4つである。
本論では前者の2つを前期、後者の2つを後期の作品とそれぞれ呼称する。

そのCarverの前期の作品において、
彼の友人であり担当編集者であったGordon Lish(1934-)が、
「編集」の範疇に収まり切らぬような、有無を言わせぬ大幅なカット・書き換えを行っていたことは、
後述する複数の新聞・雑誌記事や関係者の証言等に拠る限り、確かな事実である。
Carver自身はその事実について生前公に口を開いたことはなかったが、
Lishの影響下から抜け出た後になって、前期作品のオリジナルヴァージョンを自身の短編集に収録し直すということを何度かしている。(*1)
そのようなCarverの行動を見る限りでは、少なくともCarver本人は、
自身の創作人生におけるLishという存在を、どちらかと言えばネガティヴな要素として捉えていたようにも思われる。
とは言え、当時全くの無名で、Lishの言葉を借りるならば「二級品」(D・T・マックス 205)しか書くことの出来なかったCarverが、
Lishの編集なくして世に認められることはなかったであろうという意味において、
現在ではLishに肯定的な価値を見出す見解が支配的ではあるようである。
だが、Carverが喧嘩別れ同然にLishの下を去り、
自力でキャリアのピークを築き上げるに至った創作人生の後期にまで、
Lishの潜在的影響が及んでいるという可能性についてはほぼ言及されていないように思われる。

本論では、Carverに対するLishの存在に、極めて肯定的な意味を見出すことを目的とする。
無名であったCarverをその編集手腕によって一躍文壇の寵児へと押し上げた功績はもちろんのこと、
CarverがLishを介すことなく独力で執筆した、後期の作品に対する文壇からの高評価にも、
Carver自身は嫌っていたはずの、かつてのLishの編集作業から受けた影響が潜在的に寄与しているという可能性について論じる。

そもそもCarverの前期の作品へのLishの干渉の事実が初めて公に言及されたのは、
1998年8月9日付けのThe New York Times に掲載された、
D.T. Maxによる"The Carver Chronicles."と題する記事においてである。(*2)
この記事は、Carverの前期の複数の作品において、
Lishによる常識の範疇を超えた編集、すなわち大量のカット、書き換えが施されていた事実を明らかにするものであった。
また同時にMaxは、CarverがLishに宛てた複数の書簡についても言及し、
初めはLishの助力に感謝さえしていたCarverが、
次第にエスカレートしてゆくLishの編集に不快感を示すようになり、ついにはCathedral 以降彼と袂を分かった事実も述べている。
Maxは、インディアナ大学のリリー図書館に売却されていたLishの原稿を直接調査した数少ない人物の一人であり、
記事の内容の信憑性は非常に高いものであった。
しかしこれ以降、この件に関する詳細な、新たな情報は長らく公の場に出て来ることはなかった。

それから9年余りが過ぎた2007年12月24日、The New Yorker のウェブサイト上にオンラインオンリーの記事として、
"'Beginners,' Edited: The transformation of a Raymond Carver classic."
が掲載された。
これは、もともと"Beginners"と題されていたCarverの短編が、
Lishの編集によってどこをどのように改変され、
What We Talk About When We Talk About Love 所収の同名の短編へと変形を遂げたかということが極めて明瞭に、つぶさに把握できる、
原稿の全文が掲載された貴重な記事である。
先のD.T. Maxの記事によって、Carverの前期の作品に対するLishの干渉の事実の大要は明らかになっていたわけであるが、
一体各作品のどの箇所がCarverのオリジナルテクストで、
どの箇所がLishによる改変の賜物なのか、その詳細まで―コンマ、感嘆符にいたるまで―は分からなかった。
つまりCarverの前期の作品群はD.T. Maxの告発以降、CarverとLishの重ね合わせとして、曖昧な性質を持ち続けていたのである。

今回のThe New Yorker の記事がもたらした最大の恩恵は、
たった1編の短編においてのみではあるものの、
一作品全体に亘って両者を完全に分離したことにある。

そのCarver-Lish分離の賜物としてまず得られたのは、
今述べた通りLishの編集手法の詳細(の一部に過ぎないであろうが)である。
本論第1章では、
その手法を分析することにより、
無名の新人であったCarverをミニマリズムの中心人物と評されるまでに至らしめた要因が何であったかを明らかにする。
(逆の言い方をすれば、ミニマリズムと評される短編を書くにはどういった手法が必要かということの考察とも言える。)
本論第2章では、
同じくCarver-Lish分離によって明らかとなった、
Carverの前期における本来の作風(第2章では最前期Carverと呼称する)と、
Carverの後期作品であるCathedral における作風との相互比較を行い、変化が見られる点を抽出する。
そして、その変化の中に、
第1章において明らかにしたLish的編集手法の痕跡、影響は見られないかということについて考察する。
つまり、Lishによる編集、いわば「Lish体験」以前と以後におけるCarverの作風に変化があること、
且つ、その変化と、彼が実際には忌み嫌っていたはずの「Lish体験」との間に深い関係性があることを、論証せんとする試みである。
本論第3章では、
第2章で明らかとなった、「Lish体験」によるCarverの作風の変化が、
良き変化、即ち成長と呼べるものであることを、テーマとスタイルの合致という観点から論証する。
つまり、Lishの編集作業がCarverを作家として成長させる方向に働いたということの証明である。
以上3つの章にわたる分析・考察を経て、Carverの創作人生におけるLishの存在に極めて肯定的な意味を見出すこと、
「LishがCarverを成長させた」ことを論証することが、本論の主眼である。


第1章 Lishが生んだ前期Carverのミニマリズム


本章では、
"Beginners"と"What We Talk About When We Talk About Love"(以下WWTA)の比較からLishの編集手法を抽出し、分析を行う。
そして、その編集手法が内包する効果を、ミニマリズムの定義に照らし合わせて検証する。
まず、本論文を展開する上で最低限必要と思われる程度に、"Beginners"とWWTAの概略を示す。
前章で述べた通り、前者はCarverオリジナルの、後者はそこにLishの編集の手が入った決定稿であり、
細かい点は異なっているのであるが、話の大筋は概ね同じである。

登場人物はMel("Beginners"ではHerb)、Terri、Laura、Nickの4人で、
語りはNickの一人称である。
MelとTerri、NickとLauraがそれぞれ夫婦で、4人とも初めての結婚ではない。
ある午後、4人はMelの家の台所でテーブルを囲み、酒を飲みながら愛について語り合う。
精神的な愛、非常識な愛などについて意見を言い合うが、そこに相互的な共感(特にMelとTerriとの間において)はない。
その後Melが、我々は愛について一体何を知っているだろうか、我々は愛の初心者のように見える、と言う。
そして本当の愛とは何かということを示すべく、ある老夫婦の話を始める。
その老夫婦は交通事故に遭い、危篤状態に陥ったのだが、二人とも奇跡的に一命を取り留める。
先に意識が戻ったのは夫の方で、妻の方も順調に快方に向かっていたのだが、それを知っても夫はなぜか落ち込んでいる。
理由を聞くと、
それは事故のせいではなく、
全身ギプスのため寝返りを打てず、隣のベッドにいる妻の姿を見ることが出来ないから辛いのだとその夫は言う。
老夫婦の話を終えたMelは、僕の言っていることが分かるか、とだけ言う。
部屋は既にかなり薄暗くなっている。
酒瓶を空けた彼らは、外へ食事をしに行こうという話をするが、押し黙ったまま、誰も立ち上がろうとしない。

しかし"Beginners"では、ラストが更に以下のように続く。

酒瓶を空けたあと、外出の前にHerbがシャワーを浴びに行く。
Terri、Laura、Nickの3人になったあと、TerriがHerbのことが本当に心配だと語り始める。
TerriはHerbが離婚後から長い間精神科に通っていることを明かし、
現在も自殺を考えることがあることをひどく懸念している。
また、Terriは自身の辛い過去、中絶の経験などを語る。
またTerriはNickとLauraに対して、あなたたちが幸せにこの先続くことを望んでいるし、祈っていると述べる。
話し終え、泣き出したTerriの体を、Lauraは撫で続けながら、彼女に優しく大丈夫よと囁き続ける。
Nickはかなり暗くなった部屋の窓から外の景色を眺めながら、何かが起こりそうだと感じ、またそれが起こってほしくないと感じる。
シャワーの音が止み、Herbがバスルームの扉を開ける音が聞こえる。
Terriは依然泣き続けたままで、Lauraは彼女の髪を撫で続けている。

以上が作品の概略であるが、まず本章においては、話の大筋には関わらないような、Lishの細かな編集手法にのみ注目する。

T

"Beginners"とWWTAを比較することによって明らかとなるLishの最も特徴的な編集方針は、「批評的行為の削減」である。
この編集は大きく分けて2種類の系列のカットから成り立っている。
即ち、
「他者の言動の批評」のカット
「主観的批評」のカット
である。

初めに、Lishがカットした、「他者の言動の批評」にあたる箇所を引用する。
 「私をけなそうとした後で。」("Beginners" 1)
 「おいテリ、冗談だとしても、そんな言い方をするもんじゃない。」("Beginners" 3)
 「そんな憂鬱な話はやめて。本当に気が滅入るわ。本当にそう思っているんだとしても、口にしないで」と彼女は言った。("Beginners" 4)
 「ハーブ、そんな顔しないで」("Beginners" 6)
 「ハーブ、そんな馬鹿言わないで」 ("Beginners" 6)
これらの箇所に記述されているのは、登場人物相互の言動に対する批評である。
今の言動は「中傷」であった、「憂鬱なもの」であった、などといったように、
直前の他者の言動が備える性質を説明しているわけである。
Lishが行っているのはそういった箇所のカットである。
またこの「他者の言動の批評」が、言語ではなく表情や動作によってなされている箇所もある。
以下に引用する。
 彼女がこう言った後、ハーブは笑った。彼は顔をしかめた。テリは彼を見た。("Beginners" 1)
 彼女は笑っていなかった。("Beginners" 1)
 僕は肩をすくめた。("Beginners" 2)
 彼の表情が緩んだ。("Beginners" 4)
 僕らはみんな笑った。ハーブも笑った。("Beginners" 5)
これらの箇所も、読者による推測が必要にはなるものの、言語による「他者の言動の批評」と同等の意味を含んでいる。
Lishは、今挙げた、表情・動作による「他者の言動の批評」にあたる箇所も、カットしている。

次に、Lishがカットした、「主観的批評」にあたる箇所を挙げる。
 「僕ならそれを狂気と呼ぶだろう」("Beginners" 1)
 「その行動は僕の愛の定義には当てはまらないけど、そもそも誰がそんなもの決めるんだい?だって愛情表現の手段なんてたくさんあるじゃない
  か。それがたまたま僕の手段じゃなかっただけさ。」("Beginners" 2)
 「私は彼を気の毒に思うわ。」("Beginners" 2)
 「僕たちは本当に上手くいってると思うよ。一緒にいて楽しいし、幸運にも、まだお互いに手を上げたりしていないし。これからも上手くいきます
  ように。ささやかだけど、僕らは幸せだよ。」("Beginners" 3)
 「たぶん君の言うことが正しいね、テリ。」("Beginners" 9)
先述の「他者の言動の批評」に類似する点もあるが、
こちらは、他者の言動に対する即時的な反応というよりも、
より主観的な、その人物の根底を流れる信念、つまり性格のようなものが垣間見える部分である。

「他者の言動の批評」
「主観的批評」
いずれも、
人物がある言動なり状況なりに対して、一つの解釈・見解を提示している箇所である。
注目すべきは、彼らの解釈・見解の普遍性の度合いの差である。
前者における、「中傷だ」「憂鬱だ」という解釈はより普遍的である。
例えば、Herbからふざけた調子で君は「『愛しているんなら蹴飛ばして』主義者」("Beginners" 1 村上訳)だと言われて、
Terriがそれを「中傷だ」と受け取るのは、主観的解釈というよりはもっと表面的な、いわば常識的思考であり、つまり普遍的である。
一方後者における、「正しい」「それは狂気だ」という解釈には、
その解釈を行った人物の主観が比較的多く混じっている。
万人が一様に同じ解釈・見解を示すような事柄ではない。
つまりは、
前者からその人物固有の主観、思考パターンはほとんど読み取れないが、
後者からは人物の思考パターン、平たく性格と言ってもよいが、それを垣間見ることができるのである。
その「主観的批評」がLishによってカットされている。

以上、
「他者の言動の批評」のカット
「主観的批評」のカット
という2つの系列のカットによって、Lishの「批評的行為の削減」という編集は成立している。

U

では、Lishのこの「批評的行為の削減」という特徴的な編集は、
"Beginners"という短編にいかに作用して、
ミニマリズムの代表作の1つとして評されるWWTAへと変貌せしめたのであろうか。

その考察の前段階として、ミニマリズムの定義について述べる。 
Adam MeyerはRaymond Carverにおいて、
Carverのミニマリズムについての一致した定義を得るのは困難であると前置きした上で、
ミニマリズムに対する数人の作家・批評家の見解を引用している。
その中でも、Carverの作品群に関してミニマリズムという用語を正式に用い始めた、
いわば名付け親たるKim A. Herzingerは、
ミニマリズムの小説は
「見かけ上の平静、『平凡な』テーマ、反抗的な語り手、無表情な語り、物語の薄さ、考え事を口に出さない登場人物などによって漠然と特徴付けられる」(Meyer 29)
としている。
本章ではこの定義を採用し、これらの特徴をLishの編集の効果の表れとして論じる。
本章における"Beginners"とWWTAのみの比較においては、
Herzingerの言うミニマリズム小説の特徴のうち
「見かけ上の平静」
「無表情な語り」
「考え事を口に出さない登場人物」
の3つを、
Lishの「批評的行為の削減」による産物として言及することが可能であると考える。

まず、前記の3つの特徴のうち、
「無表情な語り」と「考え事を口に出さない登場人物」というのは単純である。
これは、Lishの
「他者の言動の批評」のカット
「主観的批評」のカット
といった手法の直接的効果の表れであるとして問題ないであろう。
特に、語り手(WWTAにおいてはNick)による「主観的批評」がカットされたケースが、
「無表情な語り」に繋がっているものと考えられる。

次に「見かけ上の平静」についての分析である。
これこそが本章の、延いては本論の要である。
HerzingerがCarver作品におけるミニマリズムの要素として第一に挙げているのも、この「見かけ上の平静」である。
これこそ、Lishの「批評的行為の削減」によって生じた、最大の効果である。

「見かけ上の平静」という言葉は、
裏を返せば、水面下では何かが蠢き進行している、という意味に取ることが可能である。
WWTAにおけるその「何か」とは、例えば4人の登場人物の不和・相互不理解であろう。
しかし、その不和・相互不理解は、
Lishの編集前の"Beginners"においては決して水面下に沈んでなどいない。
何故それが、WWTAにおいて沈下したのかと言えば、
Lishが「批評的行為の削減」によって漠然とした印象をそこに植え付けたからである。
そのプロセスにおいては、
Lishの
「他者の言動の批評」のカットが主に働き、
「主観的批評」のカットがそれを補佐している。

まず、
「他者の言動の批評」のカット
が担う効果について述べる。
例えば、
Lishがカットしている
 「『私をけなそうとした後で。』彼女は笑っていなかった。」("Beginners" 1)
という「他者の言動の批評」であるが、
これはその直前のHerbの発言を中傷だと説明し、その時Terriは笑っていなかったということを読者に伝えている箇所である。
しかし、
読者はこの記述が仮に無かったとしても、
Herbの発言が中傷「めいた」もので、
だから当然Terriは笑ってなどいない「だろう」ことを、
文脈や常識的思考に従って、認識しているはずである。
その認識は常識的思考に従うものであるのだから、確信の度合いはかなり高いものの、
その時点ではあくまで「常識的思考による推測」の域を出ないのであって、
読者の中でも100パーセント確定されてはいない。
その意味において、「めいた」や「だろう」はまだ漠然としている。
しかしCarverは、
「『私をけなそうとした後で。』彼女は笑っていなかった。」
とテクスト上に明記し、
読者が100パーセントの確信を持たずにいたその「めいた」や「だろう」といった「常識的思考による推測」に対する
揺ぎ無い(テクスト上に明記された以上は)回答をわざわざ与えてしまうことによって、
そこに残っていた漠然さを取り去ってしまっているのである。
そういった確定行為、
いわば推測に対する「答え合わせ」の頻繁な挿入によって、
"Beginners"の4人の会話における心情の動きは読者に読み取られ過ぎてしまい、
会話の背後にある不和・相互不理解は些か露骨過ぎるものに、
つまりは水面下に留まらないものになっているのである。
「見かけ上の平静」
どころか、言うなれば
「見かけ通りの諍い」
がCarverのオリジナルテクストでは展開されていると言っても過言ではない。
それに対し、
LishはCarverのその過剰な確定行為、
即ちCarverのテクストにおいて「めいた」や「だろう」といった漠然さが収束されていた地点、
「答え合わせ」を消失させ、
テクスト上に漠然さを残してゆくことによって、
4人の登場人物の会話における心情の動きを読者に掴ませ過ぎないようにした。
それ故に、その会話の中にある不和・相互不理解は、
漠然とはその存在を察知できても表面化することはなく、
まさしく水面下で何かが蠢いているといった印象、
「見かけ上の平静」を生じるのである。
上記が、
「他者の言動の批評」のカットによる、「見かけ上の平静」の基本的な発生プロセスである。

これを補佐しているのがもう一つのカットである、
「主観的批評」のカット
である。
今述べた通り「見かけ上の平静」は、
「他者の言動の批評」のカット
によって読者の「常識的思考による推測」に任せたままにしておく部分を増やし、
テクスト上に漠然さを残すことによって生じるものであった。
一方この「主観的批評」のカットは、
その「常識的思考による推測」そのものの確信の度合いを僅かではあるが下げ、
「見かけ上の平静」を補強する効果を含んでいる。
まず、
「常識的思考による推測」のプロセスにおいては、
文脈や背景設定の把握といったものは当然のことながら、
登場人物の性格の把握というものも、かなり重要である。
前述したように、
"Beginners"における「主観的批評」は、登場人物の思考パターン、
つまりは性格を、読者が知る助けとなるものであった。
それがカットされるということは、
登場人物が読者にとっていくらか「知らない人」に、
つまり「常識的思考による推測」に当てはめにくい人物になるということである。
例えばどこかのカフェか何かで、
自分の隣のテーブルに、見知らぬ4人が座って会話をしているとする。
その、自分にとって「知らない人」の会話を横で聞いている時(特に彼らがあまり多弁でない、つまり「考え事を口に出さない」人物である場合)、
ある程度常識的な推測で、
その会話における彼らの心情の動き・流れを把握することはできるかもしれない。
しかし、その常識的推測だけではカバーできない、
その「知らない人」独特の性格なり信条なりが、
彼らの会話内に飛び交ったいくつかの発言を、
自分とは異なる形で捉えたかもしれないという可能性は残る。
その可能性は、自分が「よく知っている人」同士の会話を傍聴する時よりも、幾分高いはずである。
「主観的批評」のカットがなされたWWTAにおいては、それと同じようなことが起こるのである。
つまり、
登場人物の性格の全容を見せないことによって彼らをいくらか「知らない人」にし、
読者の「常識的思考による推測」の範囲外にある何かが、
その登場人物の内面に生じている可能性を、
読者に否定し難くさせているのである。
結果、その常識的推測自体の信頼性(あくまでその小説の中での)が幾らか下がることによって、
その常識的推測に頼るものである「めいた」や「だろう」という認識の曖昧さ、漠然さも、自ずと増すのである。
つまり「見かけ上の平静」を、僅かではあるが補強しているのである。
(かなり感覚的であることは否めないが、全くそういった効果がないとも言えない。
 敢えて俎上に載せるのは、後期Carverとの類似を指摘するためである。)

以上が、Lishの
「批評的行為の削減」、即ち
「他者の言動の批評」のカット
「主観的批評」のカット
によってWWTAにもたらされた効果である。
もう一度まとめると、
WWTAにおける「無表情な語り」と「考え事を口に出さない登場人物」という印象は、
Lishの「批評的行為の削減」の効果の、直接的な表れである。
また、WWTAにおける「見かけ上の平静」という印象は、
Lishが「他者の言動の批評」をカットし、
読者の「常識的思考による推測」に任せたままにしておく部分を増やした結果テクスト上に残った、
曖昧さがその正体であった。
そして同時にLishの「主観的批評」のカットが、
読者の「常識的思考による推測」自体の確信度を下げ、
その曖昧さ、つまりは「見かけ上の平静」を補強しているのである。

つまり、
WWTAに代表される前期Carverの小説を読んだ批評家(Herzingerを始めとする)をして、
ミニマリズムという用語を使わしめた、
その前期Carverの小説のもつ印象というのは、
Lishの過激な編集こそが生み出していたものである可能性が極めて高いということである。
それをどう受容するかということは読者個人の問題であるが、
最も重要なのは、
前期Carverのそのミニマリズム的小説が、一世を風靡したという事実である。
「批評家たちはすぐに、Lishが手がけたフィクションの新しい『ヴォイス』に目を留め」、
それは「Carverの名を高めた」(D・T・マックス 206)
のである。
その意味において、
Carverの小説に対するLishの編集は、確かに賞賛されるべきものであろう。
次章では、
Lishのその編集作業が、
彼と袂を分って以降のCarverにも影響を与えているという可能性を、検証する。


第2章 後期Carverに見られるLishの編集の影響


本章ではまず、
最前期におけるCarverの作風と、
後期Carverの作風との比較を行い、
その相違について分析する。

序章で述べた通り、
本論では
Will You Please Be Quiet, Please?
What We Talk About When We Talk About Love
の2つの短編集を前期Carver、
Cathedral
Where I'm Calling From

の2つの短編集を後期Carverの作品と呼称しているが、
ここで言う最前期Carverの作品とは、
前期短編集にLishの過激な編集を受けた形で収録された作品の、オリジナルヴァージョンを指している。
当然未出版のものが多いその最前期作品の一つが即ち"Beginners"であり、
その原稿の調査の経緯については、序章で述べた通りである。
しかし同じく序章で述べた通り、
Carverはその最前期にあたる作品を、後期短編集に収録し、出版するということを何度かしている。
その一つが、
Cathedral 所収の"A small, good thing"
(Lishの編集を受けた形では、
 "The bath"というタイトルで前期短編集What We Talk About When We Talk About Love に収録されている)
である。
D.T. Maxとは別に、件のインディアナ大学リリー図書館所蔵の資料を直接調査した橋本博美によると、
"Beginners"の原稿と共に、最前期に書かれた"A small, good thing"の原稿もそこにはあり、
その原稿と、後期CarverがCathedral に収録した版とを比較したところ、
Cathedral 版は多少手が加えられているものの、
プロットに関してはほぼ最前期の原稿と同一のものであるという結論に至っている(橋本、上 629-630)。
故に本章での、最前期Carverの作風分析のための貴重な資料として、
"Beginners"に加え、
Cathedral 所収の"A small, good thing"を使用しても問題ないと思われる。
(つまり、
 Cathedral 所収の"A small, good thing" と
 What We Talk About When We Talk About Love 所収の"The bath"は、
 "Beginners"と WWTAの関係とほぼ同一であるといえる。
 にも拘らず前章において"Beginners"とWWTAのみの比較検証しか行わなかったのは、
 "A small, good thing" と"The bath"の比較からは、
 Lishの編集の詳細の「完全」な把握は不可能なためである。
 それは橋本が言う、
 CarverがCathedral 収録の際に行っている"A small, good thing"への手直しの詳細が、現状分からないためである。
 それ故、Lishの編集の詳細を知るための資料としては、些か信頼性に欠ける。)

その最前期Carverの作品である
"Beginners"、"A small, good thing"と、
Cathedral 所収の後期作品群(もちろん"A small, good thing"は含んでいない)との共通点は、
いずれもLishの編集を受けていない、
言うなればLish-freeの、
純粋なCarver自身のテクストであるということである。
この両者の比較は即ち、
その純粋なCarver自身のテクストにおける、
最前期から後期にかけての変化を抽出しようという試みである。
つまり単純に、ある作家個人の、
時間経過に伴う作風の変化を見出そうということである。
Carverという作家の場合、
そこに作風の変化が見られるならば、
その変化の背後にはLishからの影響があるという可能性を考慮するべきである。

本章の目的は、
Carverの最前期から後期にかけてのその作風の変化と、
前章で述べたLishの「批評的行為の削減」という編集との間に関係性を見出すこと、
つまり言うなれば、
Lishは前期Carverの表面的なテクストを改変しただけでなく、
Carverの作家としてのスタイルそのものを「編集」したのだということを論証することにある。
(なお本章では、後期Carverの作風の分析を行う上で、Where I'm Calling From 所収の作品には言及しない。
 本章の論旨はLishの「批評的行為の削減」という編集が後期Carverに与えた影響であって、
 それは Cathedral には見られるものの、
 がらりと作風の変わってしまったWhere I'm Calling From においては、ほぼ見出せないためである。
 少なくとも本論におけるアプローチでは、
 Where I'm Calling From におけるCarverの作風と
 Lishの「批評的行為の削減」との関係性は論証できないと思われる。)

まず、かなり広い意味での作風に言及するならば、
"Beginners"、"A small, good thing"と
Cathedral 所収の作品群は類似する部分がかなりある。
同一の作家が書いたのであるから当然といえば当然だが、
例えば「人間同士のつながり」(橋本、下 699)を主に描く点で両者は類似しているし、
Lishが最前期作品から排除しようとした「センチメンタリティー」(D・T・マックス 201)は後期作品群にも感じられる。
しかし、
特に物語の核心付近における、
「登場人物の関心」の度合い
「登場人物の言動の原因」の明瞭さ
という2点において、
顕著な差が両者には見られるように思える。

T

まず、「登場人物の関心」の度合いについて述べる。

例えば"Beginners"において、
中盤に描かれる、交通事故に遭った老夫婦の病院でのエピソードは、
4人の登場人物に対し究極的な愛の形を提示するものであるという意味で、
当小説における最も重要な要素、核の一つと言うことができる。
このエピソードに対し4人の登場人物は、
 「僕は真剣だった」("Beginners" 7)、
 「その話涙が出てくるわ」("Beginners" 8)
など、全員が明らかな関心や同情を示している。

また、"A small, good thing"では、
ラストにおける極めて重要な夫婦とパン屋との会話において、
 「彼ら(夫婦)は注意深く耳を傾けた。二人は疲れきって、深い苦悩の中にいたが、それでもパン屋が打ちあける話にじっと耳を傾けた。」
  (Cathedral 88 括弧内は引用者)
あるいは
 「二人は肯きながらその話を聞いた。」(Cathedral 88)
というような描写がなされている。
夫婦は、明らかな関心、感情移入をもってパン屋の話を聞いている。

しかしCathedral 所収の短編においては、その限りではない。
例えば"Vitamins"では、
一つの重要な伏線となるある女性との口論、その直後の別れに対し、
主人公の男は
 「僕は腰を上げて窓の外を見た。」(Cathedral 95)
とだけ述べ、歩き去ってゆく女性をひとしきり眺めたあと、
何事もなかったかのように
 「僕は酒を飲み干して、もう一杯飲もうかどうしようかと思案した。結局飲むことにした。」(Cathedral 95)
と、酒を飲む胸算用をするのみである。
また、ラストにおいて主人公が語る
 「なんだってかまうもんか。」(Cathedral 109)
という言葉も、この物語全体に及ぶ彼の無関心さを非常によく象徴している。

また別の短編"Careful"では、
無関心な主人公の変形バージョンとして、
耳垢が詰まってしまって物語の核心を聞き取れない主人公が登場する。
どうやら離婚話を持ってきたように見える妻に対し、
 「彼女がまた何か言った。『何だって?』と彼は聞き返した。『今なんて言ったんだ?』彼は本当に聞こえなかったのだ。」(Cathedral 120)
といったように、
主人公の男はその話の重要な部分を聞き取れないのである。
言い換えれば、関心を示す機会を奪われているとも言えるであろう。
つまり、"Beginners"、"A small, good thing"では物語の核となる状況・概念に関心のあった登場人物が、
Cathedralにおいては無関心な登場人物へと変化しているということである。

さて、Cathedral におけるこの「無関心な登場人物」というのはあくまで印象であり、
前章で扱ったHerzingerの定義と同類のものであるが、
その印象を生み出している要素は一体何であるのかと考えると、
それは即ち、事象に対する人物の反応が極力描かれていないという点に行き着く。
それは、
"Beginners"や"A small, good thing"における登場人物の描き方と、逆のものである。
つまり、Carverのスタイルは変化している。
問題は、反応を極力描かないというCathedral におけるCarverのスタイルが、
Lishの編集手法である「批評的行為の削減」と酷似しているということである。
「批評的行為」とはつまり言い換えれば、人物の「反応」だからである。
つまり、"Beginners" 、"A small, good thing"と
Cathedral との間に生じている、
「登場人物が関心をなくす」という変化は、
前章で述べた、
Lishの編集によって "Beginners"がWWTAへと変形され、
結果
「無表情な語り」
「考え事を口に出さない登場人物」
が生じたプロセスと同一のものと言えるのではないか。

U

次に、「登場人物の言動の原因」の明瞭さについて述べる。

まず"Beginners"においては、
登場人物の思考や行為の背後にある原因が比較的明瞭に読み取れる。
例えば終盤、TerriはHerbの自殺願望についてNickとLauraに長々と語るが、
それは
 「ハーブのことが心配なの」("Beginners" 9)
という台詞の通り、
TerriがHerbのことを「心配しているから」である。
また、そのTerriの話を聞き終えたNickとLauraが、
自分達の将来を案じて寄り添い合うのは、
 「今から5年、いや3年間でも、あなたたちが今日と同じように愛し合い続けることを願うわ。」("Beginners" 9)
というように、Terriに「話を向けられたから」である。
更には、その後Terriは手に顔を埋めて泣き始めるが、
これは前の恋人であるCarlや、
彼との間に出来た子供の中絶等に関して語るうちに感情が昂ったためであるのは疑う余地のないことであるし、
そのTerriの首や肩を撫でて慰めようとするLauraの行為も、極めて自然なものである。
そのような光景を前にしながら、家の外の風景ばかりに視線を向けているNickの行為は、一見不自然なように見えるが、
 「何かが起こりそうな気がした(中略)それが起こってほしくないと思った。」("Beginners" 10)
という彼の言葉から、その行為を一種の現実逃避の試みと捉えれば、論理的に理解が可能なものである。

"A small, good thing"においては、
そもそも小説全体の流れが極めて明快である。
子供の事故死、
夫婦の悲嘆、
その子供の死を知らずに「早く注文したケーキ(子供の誕生日用)を取りに来い」と夫婦の家へ電話をかけ続けるパン屋、
そのパン屋に対する夫婦の怒り、
そしてラストにおけるパン屋の悔悛、
夫婦とパン屋との和解・交流、
というように、小説を構成する主要な要素間の論理的連続性がはっきりとしている。
上記"Beginners"で挙げた、論理の明快さを補強しているような箇所を強いて挙げるならば、
ラストにおいてパン屋が自身の過去について語り始める直前の、
 「パン屋はそれを見て喜んだ。」(Cathedral 88)
という箇所である。
これは、自身の行い(電話をかけ続けたこと)を心から悔いて謝罪したものの、
まだ怒りが冷めやらない様子だった夫妻(特に妻)が、
自分の出したパンを3つも食べてくれたことに対する、パン屋の反応である。
つまり、
夫婦との単なる和解から交流へと向かうきっかけとなる、
自身の過去の話をパン屋が始めたのは、
夫婦の怒りの鎮まりをパン屋が見てとったからだという、
明快な論理の流れを示すものである。 
以上は一例であるが、
"Beginners" と"A small, good thing"においては、
登場人物の思考・行為の背後にある論理を比較的明快に読み取ることが可能である。

一方、
Cathedral 所収の短編においては、逆の傾向が見られる。
例えば"Cathedral"において、
盲人と主人とが一つのペンで大聖堂の絵を共に描く場面は、
この作品のハイライトと言うべき重要な箇所であるが、
この行為の、主人側の動機は些か不明瞭である。
表面上は、
 「『二人で一緒にその絵を描いてみるのさ。ペンとしっかりした紙とを持ってきて。さあ、バブ、早く持ってきて』と彼は言った。私は二階に上がった。」 (Cathedral 226)
というように、盲人に絵を描こうと誘われ、ペンと紙を取って来てくれと頼まれたため、
それを探して主人は二階へ上がってゆくわけで、論理的には全く破綻していない。
しかし、
小説冒頭から盲人に対する嫌悪感を露にしていた主人が、
ここに来て「一言の文句も洩らさず」盲人の意に従ったのは何故なのか、
その点に関して、背後にある論理がよく見えないのである。
その意味において言えば、この「彼は言った。私は二階に上がった。」は些か論理の飛躍である。

また"Vitamins"においても、
終盤で論理の不明瞭な箇所が見られる。
主人公はDonnaという浮気相手と酒場に入り、
最初は
 「それからここを出て彼女の家に行き、しかるべきことを済ませるつもりだった。」(Cathedral 102)
というように下心をむき出しにしているのだが、
その酒場で黒人兵に執拗に絡まれた後になると、
 「ドナに手を触れたいという気持ちはもうなくなっていた。」(Cathedral 108)
あるいは
 「今この瞬間に彼女が心臓麻痺で息をひきとったって、そんなのは知ったことじゃなかった。」(Cathedral 108)
などと言い、完全に彼女への興味を失ってしまう。
短時間のうちに主人公に現れた、
同一人物に対するこれら2つの態度を論理的に繋ぐであろう転換点は、
間違いなく黒人兵との一連のやり取りの中に求められるべきなのであるが、
実際の描写はというと、
黒人兵のほとんど一方的な罵詈雑言が主であり、
それに対する肝心の主人公の反応についての描写は非常に僅少なものである。
そうして転換点が明かされないが故に、
主人公のDonnaに対する態度の変化は、読者にとって理解がし難いものとなっているのである。 
以上は一例に過ぎないが、
このようにCathedral 所収の短編においては、
特に物語の核心付近で、
登場人物の行為・思考の原因がぼやけていたり、
論理的連続性を欠いていたりといった傾向が見られる。
それはつまり、
物語の核心付近で起きている「登場人物の変化」の原因
がぼやけているということである。 

"Beginners" 、"A small, good thing"から
Cathedral にかけて生じている、
この「登場人物の変化の原因のぼやけ」については、
前章で述べた、Lishによって"Beginners"がWWTAへと変形され、
「見かけ上の平静」が生じたプロセスと同一のものとして、論じることが可能である。 

まず、
WWTAにおける「見かけ上の平静」についてもう一度まとめておく。
WWTAにおける「見かけ上の平静」は、
Lishの「批評的行為の削減」による2つの効果から成り立っていた。
1つが「他者の言動の批評」のカットによって、
読者の「常識的思考による推測」に任せたままにしておく部分を増やし、漠然さを残す効果、
もう1つが「主観的批評」のカットによって、
その「常識的思考による推測」そのものの信頼性を下げ、漠然さの度合いを増す効果である。
この「見かけ上の平静」のプロセスは、
"Beginners" 、"A small, good thing"から
Cathedral にかけての、
Carverの「登場人物の変化の原因のぼやけ」が生じたプロセスと符合するものである。

「見かけ上の平静」のプロセスの図式に「登場人物の変化の原因のぼやけ」を当てはめた場合、
前者における「他者の言動の批評」にあたるのが、
先程"Beginners"と"A small, good thing"において論理の明快さを支えている箇所だと述べた、
「ハーブのことが心配なの」や
「何かが起こりそうな気がした(中略)それが起こってほしくないと思った。」
あるいは
「パン屋はそれを見て喜んだ。」
といった記述である。
これらの箇所は"Beginners" や"A small, good thing"において、
話の流れ、論理を明快にしてはいるが、
決して不可欠なわけではない。
というのも、
「他者の言動の批評」と同じく、
「常識的思考による推測」によって漠然とは把握出来るような、内容しか書かれていない箇所だからである。
TerriがHerbを心配している「だろう」ことや、
Nickが何か悪いことが起こりそうな予感を感じている「だろう」ことは、
前後の文脈を常識的に捉えれば、自ずと想像が付くのである。
しかし、
「見かけ上の平静」の時と同じく、
その時点ではそれはあくまで「常識的思考による推測」に過ぎないものであり、
読者が100パーセントの確信を持っているわけではない。
その意味において、「だろう」はまだかなり漠然としている。
それに対し、
例えば"Beginners"におけるCarverは、
「ハーブのことが心配なの」
あるいは「何かが起こりそうな気がした(中略)それが起こってほしくないと思った。」
などと、明確な回答を与え、
読者が漠然と把握していた物語の流れや人物の意識の変化を、鮮明にしているのである。
そのため、"Beginners" や"A small, good thing"には「登場人物の変化の原因のぼやけ」がほとんど見られないのである。 
Cathedral に強く感じられる「登場人物の変化の原因のぼやけ」はつまり逆で、
読者の「常識的思考による推測」によって漠然としか把握されていない物語の流れ、人物の意識の変化に対し、
明確な答えを与えないことで生じているということである。

例えば"Cathedral"について、
小説冒頭から盲人に対する嫌悪感を露にしていた主人が、
ラストで「一言の文句も洩らさず」盲人と共に大聖堂の絵を描いたのは何故なのか、その流れが理解し難いと先程述べた。
しかし、全く理解ができないわけではない。
なぜなら、「常識的思考による推測」によって、
漠然とは物語や人物の意識の流れを把握できる程度に、いわば「マイルストーン」が散りばめられているからである。
例えばMeyerは"Cathedral"についての評論において、
 「話が進むにつれ、語り手(主人)は(盲人に対する)自らの態度を考え直すようになる」(Meyer 145、括弧内は引用者)
と述べているが、これこそまさに漠然とした、「常識的思考による推測」に他ならない。
Meyerは、主人のその改心が表れている所として、いくつかの箇所を挙げている。
妻から、盲人の妻がガンで死んだばかりだと聞かされた際に「盲人のことが一瞬気の毒に思えた」(Cathedral 213)と語る箇所、
「愛する相手の瞳に自分の姿が映」(Cathedral 213)ることが生前一度もなかった、その盲人の亡妻への同情を示す箇所、
盲人が人の手を借りることなくてきぱきと食事をする様子に感嘆の念を抱く箇所、
盲人がテレビを楽しんでいることを聞いて喜んでいる箇所、などである(Meyer 145)。
つまりはこれらの箇所が私の言う「マイルストーン」である。
Meyer(読者)は、各所に散りばめられたこれら「マイルストーン」を、
常識的思考によって解釈した結果、
「話が進むにつれ、語り手は自らの態度を考え直すように」なっているというような、
推測、漠然とした認識を持つに至っているのである。
Meyerはさらに「彼ら(主人と盲人)は古い友人同士のように感じ合っている」(Meyer 145)とも述べているが、
これもまた漠然とした、「常識的思考による推測」である。
問題は、それら
「話が進むにつれ、語り手は自らの態度を考え直すようになる」
「彼らは古い友人同士のように感じ合っている」
というような、漠然とした「常識的思考による推測」を明確に裏付ける記述が、
"Beginners" や"A small, good thing"と違い、
"Cathedral"のテクスト中には極めて僅少だということである。
ごくシンプルに言い換えるならば、
例えば「私は自らの態度を考え直した」
あるいは「私は盲人のことを古い友人のように感じるようになった」
というような主人自身による発言が作中にない
(前述したように、例えば"Beginners"では、「ハーブのことが心配なの」や「何かが起こりそうな気がした(中略)それが起こってほしくないと思った。」など、
 そのような役割を担う発言が作中にあった。)
ということである。
そのため、主人は自らの態度を考え直した「ようだ」、
あるいは、主人は盲人のことを古い友人のように感じている「らしい」という、
確定されないあくまでも推測に留まり、
物語の流れ、人物の意識の変化は漠然としか理解されないままになるのである。
つまり、読者は、
主人がラストで一言の文句も洩らさず盲人と共に大聖堂の絵を描いたのは、
盲人のことを古い友人のように感じている「らしい」からだという可能性を考えるが、
主人がそう明言しないため、主人のその行為の理由を、確信を持って理解することはできない。
これこそが「登場人物の変化の原因のぼやけ」である。

"Vitamins"においても同じことが言える。
主人公に対する酒場での黒人兵の罵詈雑言は極めて低劣なものであるが、
その中には
 「あんた女房持ちだろが、え?そいでもってこのべっぴんさんはあんたのかあちゃんじゃないときてるね」(Cathedral 104)
といったように、
主人公の浮気に対する非難が混じっている。
これを「マイルストーン」として常識的に解釈すると、
主人公の中に一種の改心、浮気という非倫理的な行為に対する自己嫌悪がここで生じたの「かもしれない」という、
漠然とした推測が働く。
その推測に従えば、
酒場を出た後、浮気相手であるDonnaへの興味を急激に失うという物語の流れが、何となくは理解できそうではある。
しかしいかんせん、
その「常識的思考による推測」は作中において確定されることがない。
主人公が、黒人の罵詈雑言に対して「私はその時自己嫌悪に陥った」などという言葉はおろか、
僅かな心情の動きさえほとんど吐露しないからである。
つまり、確定されない「常識的思考による推測」のみに頼らざるを得ない読者は、
主人公に生じた変化の不明瞭さ、「登場人物の変化の原因のぼやけ」を知覚するのである。

以上が、
WWTAでLishの為した「見かけ上の平静」における
「他者の言動の批評」のカット
(即ち読者の「常識的思考による推測」を確定してしまう箇所のカット)
が、
"Beginners" 、"A small, good thing"とCathedral を比較した際にも見られるということの論証である。
その、「常識的思考による推測」の確定箇所をカットすることによって生じる効果は、
前章で述べた通りWWTAにおいては「見かけ上の平静」と捉えられたわけだが、
Cathedral においては「登場人物の変化の原因のぼやけ」として表れているのである。
いずれも、
読者の「常識的思考による推測」
に任せたままにしておく部分を増やし、
テクスト上に漠然さを残していくというスタイルである。

では、
WWTAにおける「見かけ上の平静」を生んだLishの「批評的行為の削減」のうち、
「主観的批評」のカット
にあたるものは、「登場人物の変化の原因のぼやけ」においては何が担っているのか。

それはCarverにおいてはカットではない。
"Beginners"、"A small, good thing"になかったものを、Cathedral に付加しているのである。
何の付加かと言うと、
「例外的な推測を生む要素」
である。
例えば"Cathedral"においては、
主人と盲人がマリファナを吸うシーンがある。
"Vitamins"における黒人兵はベトナム戦争帰りである。
それらはいわばプロットの背後に横たわる、小説の設定に近いものであり、
常識的に解釈されることによって読者の推測を生む、
先述の「マイルストーン」とはまた性質を異にするものである。
もう一度まとめておくと、
その「マイルストーン」による常識的推測によれば、
"Cathedral"終盤での主人の盲人との心の交流の背後には、
盲人に対する「同情、感嘆の念」がどうやらあるらしく、
また"Vitamins"終盤での主人公のDonnaへの興味の喪失は、
黒人の非難による主人公の「自己嫌悪」がその原因であるらしかったわけである。
しかし、マリファナ、ベトナム戦争という要素がそこに埋め込まれることによって、
彼らの変化の原因や理由がそれとは全く別のところにある可能性、
例えばマリファナの生む「恍惚状態」、
あるいはベトナム戦争の生む「言い知れぬ厭世感」
といったものが彼らの変化の遠因である可能性が、否定しきれなくなるのである。
その結果として、「マイルストーン」による推測の確信の度合いは更に下がり、
「登場人物の変化の原因のぼやけ」は増すのである。 
「見かけ上の平静」におけるLishの「主観的批評」のカットは、
登場人物の性格の全容を明かさないことによって、読者にとって彼らをいくらか「知らない人」にし、
「常識的思考による推測」の範囲外にある何かが彼らの内面に生じている可能性を、読者に否定し難くさせるものであった。
それに対しCarverは、
「例外的な推測を生む要素」を作中に埋め込むことによって、
同じく「常識的思考による推測」の範囲外にある何かが、
登場人物の内面に生じている可能性を、読者に否定し難くさせているのである。
その結果、「登場人物の変化の原因のぼやけ」を補強している。
手段こそ違えど、表現意図としては同一のものである。 

つまり、
Lishの「批評的行為の削減」即ち
「他者の言動の批評」のカット、
「主観的批評」のカット
と同種の改変が、最前期Carverと後期Carverの作品を比較した場合に見られるということである。
そしてCarverのその改変は、
Lishの「批評的行為の削減」が、
"Beginners"に存在しなかった「見かけ上の平静」をWWTAにもたらしたのと同様のプロセスを経て、
"Beginners"、"A small, good thing"に存在しなかった
「登場人物の変化の原因のぼやけ」
Cathedral にもたらしているのである。 

以上、
Carverの最前期から後期にかけての作風の変化と、
Lishの「批評的行為の削減」という編集との関係性を論証してきた。
結論としては、
Carverの広義における作風に大きな変化はないが、
物語の核心部分において、
後期作品Cathedral では「無関心な登場人物」と「登場人物の変化の原因のぼやけ」が現れてくる。
そしてその最前期作品には見られない2つの特徴の発現過程には、
WWTAに「無表情な語り」「考え事を口に出さない登場人物」「見かけ上の平静」という印象をもたらした、
Lishの「批評的行為の削減」との高い類似性が見られるということである。
これは、
Carver自身は嫌っていたはずの「Lish体験」が、
Carverの作家としてのスタイルそのものに大きく影響を与えていることの、一つの証明である。


第3章 後期Carverにおけるテーマとスタイルの合致  


第1章、第2章を経て、
前期作品へのLishの直接的干渉についてはもちろん、
後期CarverのスタイルにもLishの影響が見られるということを論じてきたわけであるが、
本章では、Lishによって形成されたとも言えるその後期Carverのスタイルと、
後期作品(Cathedral )のテーマとの合致について論じる。
前章で述べた、
最前期から後期にかけての、Lishの影響によるCarverの変化が、
良き変化であるということ、
つまり本論の主眼である「LishがCarverを成長させた」ということの論証が、本章の目的である。 

Carverの後期作品、第3短編集であるCathedral は、
全米図書批評家サークル賞とピューリッツァー賞の両方にノミネートされた作品であり、
多くの批評家からCarverの最高傑作であると目されている。
彼の師であったJohn Gardnerも、短編集収録前の"Cathedral"をBest American Short Stories, 1982に選出している。  
その評価の理由としてはいくつかの見解があるようだが、
比較的よく見られるのは、Irving HoweやWilliam L. Stullのように、
前作What We Talk About When We Talk About Loveにおける余りに絶望的な作風からの「回心」(結局それは単にLishの直接的編集が止んだことによるものだったのだが)
そのものを評価する向きである。(*3)
一方村上春樹は、
「文章的技術とこの作家独自の持ち味が最高のレベルで」(村上 411)重なり合っている点で、
Cathedral に高い評価を与えている。 
本章で述べるのは、まさに村上の言う「文章的技術」と「Carver独自の持ち味」(Carverの表現するテーマと解釈する)の重なり、
つまり前章で論じた後期Carverのスタイルと、Cathedral におけるテーマとの合致についてである。 

Cathedral で表現されているテーマを敢えて一言で述べるならば、
「日常に潜む人生の転機」
である。
例えば"Cathedral"では、
盲人とのささやかな交流によって、
語り手は「生まれてこのかた味わったことのない気持ち」(Cathedral 228)を体験し、
"Vitamins"では、
たった一夜のうちに起こった酒場での出来事により、主人公は言い知れぬ「諦念」のようなものを心に抱く。
Meyerはそれらを「突然の悟り」(Meyer 146)と呼んでいる。
問題は、
その「日常に潜む人生の転機」「突然の悟り」といったようなテーマを小説上で表現する場合に、
前章で述べた後期Carverのスタイル、特に「登場人物の変化の原因のぼやけ」というスタイルが非常に良い効果をもたらすということである。

まず、
「突然の悟り」を強調するためには、
「登場人物の変化の原因のぼやけ」、
つまり悟りに至るまでの登場人物の変化の過程を隠しておいた方が、当然効果的だということがある。
そしてまた、その人物の変化の過程を隠蔽するスタイルは、
「突然の悟り」を引き起こした原因が、「日常に潜む」ものなのだということを強調している。
つまり、自らの中に起こりつつあるその「突然の悟り」の過程を、
当の登場人物自身が説明できないほどに、それを引き起こした原因は些細な、
決して大事件ではない「日常に潜む」ものなのだと、暗に強調しているのである。
もし仮に、
最前期のスタイルでCarverがCathedral を執筆していたならば、
人物内面に生じつつある変化の過程はつぶさに把握されてしまって、
「突然の悟り」の鮮やかな印象は薄れ、
それを起こさしめた原因の些細さ、「日常性」は決して表現され切らなかったことであろう。

以上、
Lishの影響によって形成された後期Carverのスタイルが、
Cathedral における「日常に潜む人生の転機」「突然の悟り」というテーマと、非常に良く合致しているということを論じた。
そしてそれは即ち、「Lish体験」以前の、最前期のCarverのスタイルのままでは、決して為せなかったことだということである。
Cathedral という、「文章的技術」と「Carver独自の持ち味」が巧みに重なり合った傑作は、
LishによるCarverの「成長」なくして、誕生し得なかったのである。


終章


本論では3章に亘る考察を行い、
Carverの創作人生におけるLishの存在に、極めて肯定的意味を見出してきた。
まず第1章では、
前期Carverを一躍文壇に認めさせることとなったミニマリズム的要素が、
Lishの「批評的行為の削減」という編集の産物であることを論証した。
続く第2章では、
Lishと袂を分った後の、後期Carverの作品Cathedral においても、
Lishの「批評的行為の削減」の影響が見られることを論じた。
それはつまり、最前期Carverのスタイルが、
「Lish体験」によって後期Carverのスタイルへと変化したことの証明でもあった。
そして第3章では、
「Lish体験」によって形成されたその後期Carverのスタイルと、
テーマとが巧く合致したことが、Cathedral に対する高評価の要因であることを論じた。
つまり、Lishによってもたらされた、
最前期から後期にかけてのCarverの作家としての変化が、「成長」と呼べるものであることの論証であった。
つまり、
無名であったCarverを世に広く認めさせたのもLishなら、
「親離れ」したCarverが独力で執筆したCathedral に対して、
文壇からの高い評価を与えさせたのも、突き詰めればLishだということである。
LishはCarverの創作人生に、介在し続けたのである。
そしてCarverを作家として「成長」させた。
青山南はある評論において、
CarverとLishの関係を、"Cathedral"のラストシーンにおける主人と盲人の姿に重ね合わせている。(*4)
つまり、
主人がCarver、
その背中におおいかぶさって主人の手を握っている盲人がLishであり、
二人は一本のペンで、大聖堂の絵を描いているのである。
その「二人羽織」は、Carverの前期作品を生み出した。
しかしCarverがLishの下を去った後の後期作品においても、実は「二人羽織」は続いていた。
CarverはLishの「亡霊」と、「二人羽織」をし続けていたのである。







-注-

本文中へのテクストの引用に際して、Cathedral 所収の作品は全て、
レイモンド・カーヴァー、村上春樹訳『大聖堂 THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER 3』中央公論社、1990.
の訳を使用した。
また、"Beginners"の引用箇所で、村上訳と注記してある箇所は、
レイモンド・カーヴァー、村上春樹訳『愛について語る時に我々の語ること THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER 2』中央公論社、1990.
の訳を使用した。

*1
Cathedral所収の"A small, good thing"、Where I'm Calling From所収の"So much water so close to home"など。
*2
この記事は後に村上春樹が翻訳し、『中央公論』1999年2月号に「誰がレイモンド・カーヴァーの小説を書いたのか?」という記事として掲載された。
本論ではその村上訳を引用している。
*3
Irving Howeの見解については、
平石貴樹、宮脇俊文編『レイ、ぼくらと話そう―レイモンド・カーヴァー論集』南雲堂、2004.に収録されている、
青山南「カーヴァーが文章を書いていた場所」内で、青山が引用している高橋源一郎のエッセイ「レイモンド・カーヴァーをアーヴィング・ハウがほめていた」の内容を参照した。「回心」という言葉は、高橋がHoweの見解を指して使用している言葉である。
William L. Stullの見解については、
レイモンド・カーヴァー「『カーヴァーズ・ダズン』のための序文」ウィリアム・L・スタル、『Carver's Dozen ―レイモンド・カーヴァー傑作選―』村上春樹編訳、中央公論社、1997.を参照した。
*4
平石貴樹、宮脇俊文編『レイ、ぼくらと話そう―レイモンド・カーヴァー論集』南雲堂、2004. 収録の青山南「カーヴァーが文章を書いていた場所」、50頁参照。



-参考文献-

使用テクスト
Carver, Raymond. "Beginners" The New Yorker 24 Dec.2007. http://www.newyorker.com/
…, Cathedral. New York: Vintage Books, 1989.
…, "What We Talk About When We Talk About Love" Where I'm Calling From: New and Selected Stories. New York: Vintage Books, 1989.

引用文献
Meyer, Adam. Raymond Carver. New York: Twayne Publishers, 1995.
D・T・マックス、村上春樹訳「誰がレイモンド・カーヴァーの小説を書いたのか?」(アメリカ文学の現場から1)、『中央公論』(1999年2月号)、中央公論社、1999.
橋本博美「"A Small, Good Thing"オリジナル草稿にみるカーヴァーの書き換えの真相(上)」、『英語青年』(2000年1月号)、研究社、1999.
…, 「"A Small, Good Thing"オリジナル草稿にみるカーヴァーの書き換えの真相(下)」、『英語青年』(2000年2月号)、研究社、2000.
平石貴樹、宮脇俊文『レイ、ぼくらと話そう―レイモンド・カーヴァー論集』南雲堂、2004.
レイモンド・カーヴァー「『カーヴァーズ・ダズン』のための序文」
 ウィリアム・L・スタル、『Carver's Dozen ―レイモンド・カーヴァー傑作選―』村上春樹編訳、中央公論社、1997.
…,「解題」村上春樹、『大聖堂 THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER 3』村上春樹訳、中央公論社、1990.

次の文献からは引用はしなかったが、論文執筆の際に参考にした。
"'Beginners,' Edited: The Transformation of a Raymond Carver Classic." The New Yorker 24 Dec.2007. http://www.newyorker.com/
Gentry, Marshall Bruce, and William L. Stull, eds. Conversation with Raymond Carver. Jackson: University Press of Mississippi, 1990.
"Letters to an Editor." The New Yorker 24 Dec.2007. http://www.newyorker.com/
Max, D.T. "The Carver Chronicles." The New York Times 9 Aug.1998. http://www.nytimes.com/
Nesset, Kirk. The Stories of Raymond Carver. Athens, Ohio: Ohio University Press, 1995.
"Rough Crossings: The Cutting of Raymond Carver." The New Yorker 24 Dec.2007. http://www.newyorker.com/
青山南『アメリカ短編小説興亡史』筑摩書房、2000.
リチャード・フォード、村上春樹訳「グッド・レイモンド」(アメリカ文学の現場から2)、『中央公論』(1999年4月号)、中央公論社、1999.
レイモンド・カーヴァー、村上春樹訳『愛について語る時に我々の語ること THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER 2』中央公論社、1990.
…, 『大聖堂 THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER 3』中央公論社、1990.



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